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Home>> MINDAN 文化賞 2007年度受賞作品集
 

大学生・社会人の部 『優秀賞』

「孝道の記憶」 (山本 鍛/男/無職/北海道)

 私の記憶の中の祖父は、ずっと寝たきりの姿でした。そして食事の時には父が手づくりしたという車いすにもたれていました。私が小学校に入学する前から小学校 3 年生になるまで、その祖父の日常を見ていましたから、その姿は未だに網膜に焼きついています。

 祖父は私達と同居していました。長男である私の父と母、そして私の妹の 5 人家族でした。 父に聞くと、祖父は脳梗塞で倒れ半身不随になり、言葉の話せない生活が 3 年余り続いていたと言います。当時、私は小学校の低学年でした。父は午後 5 時を過ぎると会社から帰ってきます。そして隣の部屋で寝ている祖父のところに行きます。

 「お父さん、ただいま」と、いつも決まったように父の声が聞こえます。そして「昼ご飯食べた?今日は何してた?」と祖父の手を握り、顔をくっつけるように話していました。祖父の嬉しそうな顔。何かを言いたそうに父の顔を見つめています。これは毎日、繰り返される父と祖父の会話でした。一方通行の会話ですが、祖父の嬉しそうな表情が印象的でした。

 夕食は祖父も一緒に家族揃っての食事です。ここでもやはり父が食事の世話をしていました。祖父は不自由な左手でごはんを食べます。唇が半分くらいマヒしていたのでしょう。食物が口からボロボロとこぼれます。ヨダレが出ます。そんな祖父を嫌な顔をすることなく介護する父でした。祖父のオムツを換える時は、隣の部屋で父と母の二人がかりで世話をします。祖父は自分で動くことが出来ないので、横に向けたり、腰を持ち上げたりしています。こういう時、父が祖父に「良かったね、お父さん。これでおなかが楽になるね。良かった、良かった」と話しかけています。

 父の話によると、祖父は鍛治職人だったといいます。「非常に頑固者だが実直な人だった」と父は回顧していました。そして父の祖父、つまり祖父の父親も実直で一本気な鍛治職人だったというのです。その祖父の父親も、 50 歳の働き盛りに脳梗塞で倒れたといいます。その時、父は私と同じように小学校の低学年だったとか。祖父は倒れた父親の世話に明け暮れ、今、父が祖父の面倒をみているのと同じことを、祖父は自分の父親にしていたというのです。何年も経ってから、父は「あの時、親の背中を見ていたから、自分も同じことを父親にしていたと思うよ」述懐していました。

 その祖父が風邪から肺炎を併発して亡くなったのが、私が小学校の 3 年生になったばかりの春でした。私の記憶でも、それはアッという間の出来事でした。父は亡くなった祖父の顔に自分の顔を押しつけるようにして号泣していました。あんなに冷静で思慮深い父の深い嘆き悲しみ。私たち家族も声をあげて泣きながら、祖父の死を悼みました。

 父は口癖のように「親が子供を育てる。その親が年をとったら子供が親の面倒を見るのは当然だ」と、いつも口癖のように言っていました。子供は親の背中を見て育つと言います。父が祖父の背中を見て育ったから、あんなに献身的に親の世話が出来たのだと思います。その父は 54 歳の若さで急死しました。親を亡くすというのはこんなに悲しいものなのか、私は声を上げて嘆き悲しみました。

 私が中学生の頃、父に話したことがあります。「お父さんが、病気でおじいちゃんみたいに寝たきりになったら、僕が面倒みるからね」。父親の嬉しそうにしていた笑顔が思い出されます。「子供の時からそのつもりでいたのに、それも出来なかった。寝たきりになってもいいから生きていて欲しかった」と今でも心の中で思っています。

 亡くなった父と祖父の年齢を、遙かに越えてしまった私ですが、父と祖父とその父親の巡り合わせの因縁を考えると、親と子の絆は絶対に切れるものではないと考えています。

 
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