 | | 著しく人権を侵害する外国人登録の指紋押なつ制度に対して民団はデモや100万人署名運動など全団員が協力して廃止を訴えた |
韓日両国は国交を正常化するために1951年に予備会談を持った。ところが、法的地位問題などで双方の主張が対立し、14年余りの協議の結果、65年に1・2世に協定永住を与えることを主な内容として妥結した。
しかし、この韓日協定は在日韓国人の3世以降の在留資格の問題を91年まで先送りするなど、到底満足のいく内容ではなかった。加えて69年には出入国管理法案が持ち上がった。この法案は在日韓国人の追放を企図する悪法で、民団は全国各地で反対闘争を繰り広げ廃案に追い込んだ。
70年代に入ると、民団は自らの権益擁護運動で韓日協定の不備を補完するようになった。日本生まれの2・3世が多数派を占めるようになり、日本定住が現実のものとなったのが運動の背景だ。
各種の社会保障制度から「国籍条項」を撤廃させることに主眼を置いた民団では、78年に「全国統一要望書」を日本の各自治体に提出した。運動の結果、地方自治体では徐々に「国籍条項」を撤廃し始め、近畿圏を中心に公務員や教員の採用が実現するようになった。
80年4月には大蔵省が国民金融公庫や住宅金融公庫、建設省が住宅公団や公営住宅、厚生省も82年に国民年金から「国籍条項」を撤廃した。
83年に入ると民団は外登法の指紋押なつ、常時携帯制度が人権を著しく侵害するものとして、その廃止を求める100万人署名運動を展開した。制度上の差別撤廃のみならず、在日韓国人に対する偏見を改めさせる段階へと進んだのである。
法改正を求める署名は181万にも及び、84年以降には青年会を中心に指紋拒否運動が広がる中で民団は指紋留保戦術を取り、拒否・留保者は1万人を超えた。これらの動きが指紋廃止を導く原動力になったことは言うまでもない。
 | | 定住外国人への地方参政権付与を求めて各級議会への請願活動やシンポジウムなどに挙団的に取り組んでいる |
65年の韓日協定では未解決となっていた協定3世以降の在留問題などについて、韓日両国が結論を出す時期が91年であった。民団では協定3世の問題だけでなく、1・2世の問題を盛り込んで一括解決ができるよう韓国政府に要請した。
韓国政府は民団の意を受けて協議を進め、その結果、91年1月に両国間で「韓日覚書」が交された。法務省はこの「覚書」を受けて、91年11月から入管特例法を施行し、協定3世以降の日本永住を認めたほか退去強制を緩和した。さらに93年1月からは指紋押なつのない外登法が施行された。
法的地位と同様に重要なものが、就職問題に代表される待遇面の改善である。日本政府は91年に「覚書」を交換しながらも、依然として在日韓国人を「国籍条項」によって門戸をはばんできた。
民団では残された課題が生活に関わる問題であることから、「生活権拡充運動」を提起し、地域住民として、生活者の立場からこの運動に取り組むことを決め、@民族教育の保障A「国籍条項」の撤廃B地方自治体への参与ーなどを掲げて運動を展開した。
 | | 廃止を訴えて日本の社会保障制度の要ともいえる国民年金制度の国籍条項の撤廃に対しても様々な角度から取り組み、現在は同胞の加入が認められている |
86年に地方参政権運動を提唱していた民団は、94年の中央委員会で参政権獲得を掲げ、全国の自治体に決議を促す要望活動を精力的に展開した。
一方、90年代に入ると大阪や福井で地方参政権を求める裁判闘争が始まった。結果は敗訴となったが、大阪地裁は「定住外国人が地方自治体の政治、行政にさえ参加できないのは不当と考えるのも一面もっとも」と踏み込んだ判決を出した。
この司法判断がその後の地方議会に影響し、93年9月には全国で初めて大阪の岸和田市議会が意見書を採択した。大阪地裁の判決を不服とした原告らは最高裁に提訴していたが、95年2月28日の判決では、「地方選挙権付与は憲法上禁止されているものではない。国の立法政策に関わる事柄」という内容を引き出した。
民団の地方参政権獲得運動によって、地方自治体などの理解は増加の一途をたどり、98年5月現在、1357の自治体が国に対して「定住外国人の地方参政権確立」求めた、意見書を採択するにいたったのである。
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