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Home>> MINDAN 文化賞 2007年度受賞作品集
 

大学生・社会人の部 『優秀賞』

「父の故郷清州への道」 (李貞子/女/主婦/千葉県)

 お墓は小高い丘の上の雑木林の中に点々と六基立っておりました。長年風雨にさらされ荒れてはおりましたが、私が想像していたものよりもずっと大きく立派で堂々としたものでした。私達のルーツがそこにあったのです。うす紫色のスミレの花がそよそよと風にゆられ私達は言葉では言い表すことの出来ない感動で立ちすくんでしまいました。

父-「 네 성은 무어냐 ? (ネ スニムオニャ?=お前の姓は何だ?)」
   「 한산 이가요 . (ハンサンイガヨ=韓山李家です)」
父-「 누구 자손이냐 ? (ヌ チャソニニャ?=誰の子孫か?)」
  「 목은 자손이요 . (モグン チャソニヨ=モグンの子孫です) 」
父-「 고향은 어디냐 ? (コヒャンヌン オデヨ=お前の故郷はどこだ?)」
  「 충청북도청주군북일면오동리 258 번지 (チュンチョンブッド チョンヂュウグン プギルミョン オドンリ イベッオシッム パルバンチ= 忠清北道清州郡北一面梧東里 258 番地 )」

 私が物心ついた時からくり返しくり返し父から教えられた言葉です。上手に言えると父は嬉しそうにアメを一つ口の中にポンと入れてくれました。その時は何のことかわかりませんでしたが、これが私達のルーツ(故郷)であると知ったのはずっと後のことです。

 父は 43 年前に 65 才で亡くなりました。 9 人の子供を育て苦労の多い人生であったと思います。 27 才で故郷を後にし、その後一度も帰ることなく、どれほど無念であったことでしょう。けれども一度もそれを口にすることはありませんでした。ただ一年間に数多くある「チェーサ」の時に父だけはそっと涙を拭いていました。そんな父が哀れに思えてなりませんでした。

 兄妹で父を語る時、とにかく厳しかったこと、それ一言につきますが、端整な顔立ちともの静かな身のこなし、また達筆で博識でした。そんな父が私は自慢でした。父は一人っ子でした。学問だけは人一倍身につけた誇り高い人でしたから、祖国に帰るにはそれなりの覚悟とお金も必要だと考えたのでしょう。

 晩年帰れる時がきた時には体調をくずし、とうとう一度も故郷の土を踏むことなく亡くなりました。私が 25 才、一番下の妹が高校生の時でした。そしてこの春、 4 人姉妹で父の故郷さがしに韓国を訪ねてみることにしたのです。高校生であった妹は今年が還暦、みんなが元気なうちにと、昔教えられた住所を頼りにソウルからタクシーに乗りました。姉のカタコトの韓国語も何とか通じ、あちこち聞きながら半日がかりで捜しました。韓国も市町村合併で住所は変わっておりましたが、タクシーの中から「梧東里」の石の道標を見つけたのです。その道標は私達に「ここだよ」と語りかけるように立っていました。

 道なりに進むとのどかな田園風景が広がり、 7 、 8 軒の集落がありました。もしやとタクシーを降りました。そしてその中の一軒の表札が目に入りました。忠清北道清州郡北一面梧東里 258 。そして名前の下に父と同じ「求」の文字がありました。私達は胸のふるえるような感動で声もなく、ただ涙、運転手さんも驚くほどの滂沱の涙でした。

 廃屋となっていたその家人は母が墓を立てた折りすべてを託し、それなりのことをしたと聞いておりましたが、事情があったのでしょう、随分前にアメリカに移住したとか。でも表札だけはそのままでした。何か私達のために残しておいてくれたようで、本当に嬉しく感謝の気持ちで一杯でした。集落を一周して見ると、兄達と同じ「馥」という字のつく表札やその下の代の私達の甥と同じ「遠」という字の表札があったりと、確かにここが父の故郷であったことを確信しました。今思えばどうして両親が元気な時もっともっといろんな事を聞いておかなかったのか、ただ残念で後悔の念でいっぱいです。

 今回お世話になった方は偶然にも母を良く知る人で、その方のお世話で私達の親戚という人達を呼んで下さり、大急ぎで供え物を用意し、お墓参りをする事が出来ました。 6 代前まで作ってあったお墓は、みな同じようにどんぶりを伏せたような形で、その前には大きな長方形の石碑が立ち、両側には高い石の塔が立っているようなめずらしい形をしていました。石碑の横には私達の兄弟 5 人の名前が刻まれていました。母が元気だった 35 年前、このお墓を作った時は村中お祭りのようであったと聞きました。・

 今兄 2 人が亡くなり、残る兄達も入退院をくりかえし今回は 4 姉妹だけの旅となりました。私達はこれで長年の胸の支えがとれたと思ったのですが、お墓の行く末を思う時、大きな宿題を残してしまったような気がするのです。これは私達だけでなく在日の方達のかかえている共通の問題かもしれません。

 私達兄弟は来年のお墓参りを約束しました。うす紫のスミレの花の咲く頃に┉。

 
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