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Home>> MINDAN 文化賞 2007年度受賞作品集
 

大学生・社会人の部 『入賞』

「孝道の記憶」 (李和枝/女/教諭/東京都)

 「父ちゃん、手も足もでないよ」「カズ。お前はその学校で 34 年間も頑張って来たんだ。自分に対する褒美と思ってゆっくり休め」「父ちゃん、今何しているの?」

 「お!俺か。山で炭を焼いたり、ヤギに餌をやったり、ゴーヤを植えたり、いろいろ忙しいや。午後からは鰻を獲りに行ったり、船のペンキ塗りもせんといけん。」

 学校の休み時間に渡り廊下に出てみると、北側に税務大学跡地に東京女子医大と早稲田大学が統合大学院を建設中であった。その頃の私は、職場である学校の揉め事に巻き込まれ、思うように職務をこなすことが出来ないでいた。ブルドーザー等の重機をみていたら、ふと、父の仕事の事を思い出し、思わず携帯を手に取っていた。

 父は今年で 80 歳になる。祖父母の代から瀬戸内海の光が燦々と降り注ぐ明るくて陽気な土地、日本の幕開けの志士たちが住み、私たちの祖先である渡来人の大内が守護大名として治めた山口県に移り住んだ。父は元国鉄マンであった。昔、 300 人の中でただ 2 人の韓国人の内 1 人が父であったそうだ。その当時、満鉄に行かされそうになって長男である父を行かせる事はできず、祖父母が涙して止めたという話を聞いた。酒が入ると上機嫌になり、父は決まってその時の話を私たち 4 人妹弟に呼びつけては話した。「父ちゃんが、もし満鉄に行ってたらお前たちは生れてこなかった」と。

 また、長女である私と妹には高校を卒業したら韓国に行って小学校の教師(それも僻地か離れ島の)になれ。弟には、韓国の陸軍士官学校に入って、立派な人間になるようにと、民族教育についても延々に語った。そんな父を横目に、私たち妹弟は欠伸をしながら、いつ終わるのかと柱の時計だけをみつめ聞いていた。それはいつも夜の 12 時を回っていた。

 こよなく自由を愛し子供たちを愛し続ける父を私たち妹弟 4 人は尊敬し、好きであった。国鉄を去り、トラック 1 台で事業を起こした父は土建業者として名を連ね、 4 人の子供たちを大学に行かせた。私と妹は父の希望通り韓国へ、弟 2 人は日本の大学へと進んだ。又、長年、民団支部の団長として頑張り、韓日会談の後は字が解らない同胞の為に、特別永住権取得に駆け回ったと聞いた。男気の強い父に弟たちは憧れ、幼い頃はいつも誇らしげに「姉ちゃん、あの橋は父ちゃんが造ったんだよ。あの道路も。僕も大きくなったら、父ちゃんみたいな仕事をするんだ」と言っていた。弟は今、山口県で念願通り(?)父の後を継ぎ父と母の面倒をみながら平穏な日々を送っている。帰省する度に、「姉ちゃん、あの橋は僕が造ったんだよ。あのバイパスも」と、父を乗り越えようとする弟の意気込みが頼もしかったりもする。

 父がここまで来るのには波瀾万丈の人生があっただろうに愚痴ひとつこぼさず、ただ好きなお酒を気が済むまで飲んでいた。その父に閉口しながらもその我儘を一身に引き受け辛抱強く耐え続け、畑作りに没頭する母の姿は、女性として超えられない偉大さがあった。

 そんな父と母に報わなければと私と妹は、ソウルの教育大学を卒業し教師となった。在日一世達が異国で一生懸命生き、その当時、貧しかった祖国の親兄弟たちの為に自分の生活も顧みず電気を付けたり、水道を引いたり、道を造ったりする姿をみて、熱いものを感じた。大袈裟だが私と妹は、一世の労苦に報いるかの使命感のようなものを感じ、日本に戻って民族学校の教師となった。そして私たちが母国語を知らずに育った理不尽な環境を少しでも変える手伝いができたらと教師職に専念した。

 この冬、帰省した時、父母は職場での揉め事にすごく胸を痛めていた。母は夜も眠れない。父は胃がないのに胃が痛いと言う。私は初めて心配をかけ親不孝をしてしまったのだ。

 「父ちゃん、学校を辞めてもいい?もう充分親孝行をしたでしょう。父ちゃんが願ったとおり教師もやったし教頭にもなれたし。父ちゃん、何と言った?私が教頭になった時、『カズ、今度は校長になれ』って。父ちゃん、校長は無理よ。国から派遣されてくるから」

 「カズ、もういい。父ちゃんの為に生きんでもええ。お前の好きな様に生きろ。辛いなら辞めえ」

 東京に戻る飛行機の中で、私はいつも長女として父と母の期待を一身に受け育ち、答えようと頑張ってきた。その自分が余りにも惨めで涙が止まらなかった。そして生まれて始めて親不孝をしたことも辛かった。しかし、これからは父と母の為ではなく自分の為にしっかりと生きることが父と母に対する本当の孝行とも思え、気を持ち直し山口県を後にした。この夏、職場での揉め事が一段落した。心配する父と母の為、主人と一緒に帰省した。空港には父と母が出迎え母は涙を流し泣いていた。父は一言、「カズ。よう、耐えたのう」

 両親に申し訳なくて、久し振りに父との小旅行を計画した。夫と 3 人で長崎の雲仙、普賢岳へと足を運んだ。父は宿で出された好きな酒、ビール、料理を以前のようには口にすることが出来なくなっていた。それは 23 年ぶりに癌が再発した一昨年、胃を全部摘出したからである。酒豪の父が男気をみせながら豪語していた、かつての勇ましい姿はどこにも見ることができなかった。ただ箸を取る、か細くなった腕だけがやけに目に付き、悲しくなって涙が止まらなかった。帰りの車中、ひたすら眠りについている父。来年もこうして旅ができるだろうか、長く生きてくれるだろうか、私が定年するまで元気で居てくれるだろうか。複雑な思いで、後ろの座席を振り向くと異国の地で長い間、汗を流し一生懸命生きてきた父の皺が幾つものの勲章となって刻まれていた。

 定年後、私は、親の元で悔いのない介護に努め安らかな日々が送れるよう孝行をしたい。それが、今まで支えてくれた父と母に対する礼儀だと思うから。

 
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