祖国解放の直後、日本には230万人の同胞がいたが、翌年3月には65万人まで減少した。たった半年ほどのあいだに200万人近くが帰国したことになる。
同胞は徴用などにより日本各地の炭坑、トンネル・鉄道・河川工事や軍需工場に動員され、明日をも知れぬ苛酷な生活を強いられていた。解放をどれほど待ちわびていたかを、帰国を急ぐ同胞の姿は雄弁に証明している。
日本に残った同胞は、各地で帰国事業や生活権の獲得に奔走していた。祖国が解放されるや、同胞は全国各地に自治団体を組織し、帰国事業などを推し進めた。組織の数は数百と言われるが、はっきりした数字はわかっていない。
これらの組織を糾合してできたのが「朝鮮人連盟(朝連)」である。朝連に属する青年らは、新しい国家を作り上げていくのに若い力と知識などを集めようと組織化を始めた。これが後の「建青」の母体となる。
朝連は共産主義者の金天海らと日本共産党の指導によってたちまち左傾化、共産化されていった。青年メンバーらは、左傾化を深める朝連に対し、「思想的に傾くべきでない」と訴え、抗議のため朝連の第1回中央委員会に乗り込む。
結局、多勢に無勢で青年らは会場から追い出される。青年らは「このままではいけない」と、組織結成を急いだ。45年11月16日、朝連の共産化に反対する青年らは東京・新橋に3000人が集まり、「朝鮮建国促進青年同盟(建青)」を結成した。大会には青年だけでなく、朝連に反対する人も多く集まった。
建青は全国組織化を急いだが、各地で朝連との衝突が引き起こされた。朝連は、建青を「反動分子」と非難し、組織つぶしにかかったためだ。そのために朝連は「特別保安隊」という専門チームまで作った。兵庫県では特に衝突が激しかったと言われている。
当時、建青は東京・青山の旧陸軍大学跡に本部を置いていた。3階建ての屋舎の2階までを建青が使用し、3階には朴烈氏が委員長を務める「新朝鮮建設同盟(建設同盟)」が入っていた。
建青と建設同盟は、朝連に対抗する自由民主主義に則った真の大衆組織を作ろうと、20団体余を結集した。こうして結成されたのが「在日朝鮮人居留民団」であった。
結成大会は46年10月3日、日比谷公会堂に全国からの代議員218人と各団体の代表者ら約2000人を集めて行われた。大会では朴烈氏を団長に選出、「当面の難局を突破しよう」との宣言書を採択した。
宣言書は、「わが同胞が帰国する日まで」と帰国を前提とし、「一致団結してわれわれの義務を忠実に行う」としている。その上で、@在留同胞の民生安定A在留同胞の教養向上B国際親善をそれぞれ期すると、目的を明らかにしている。
宣言書はまた、「決してある思想や政治団体でなく、また本国あるいは海外のいかなる思想や政治の主流にも偏らず、その中のひとつを支持したりこれに加担しない」と、中立・自主性を強調している。
創団当初からのこの考えは、現在まで引き継がれている。今の綱領には権益擁護、経済発展が加わったものの、民生安定、教養向上(現在は「文化向上」)、国際親善は創団以来、民団の最終目標を示すものとして受け継がれている。
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