民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 沿革・歴史
歴史2/民団と在日
当然の権利獲得へ奔走
人道的立場に立って
朝総連系同胞の母国訪問団も実施

在日同胞の法的地位および処遇の安定を求めて開かれた中央民衆大会
(1963.2、日比谷野外音楽堂)
民団創団の基本精神は、「相互扶助」にある。困ったときはお互いに助け合おうというものだ。阪神大震災の時に示された民団の迅速で広範な支援は、その基本精神が十分発揮されたものと言える。この精神は経済分野、権益擁護など広い分野で実践されている。

昨年1月、兵庫県を中心に襲った阪神大震災は、同胞にも多大の被害を及ぼした。死者129人、負傷者286人、家屋の全・半壊5694世帯、企業所の損失1191戸。 民団中央本部は、地震の翌日に「対策本部」を設置、全国組織を通じて救援物資と義援金集めを指示した。

集まった物資は飲料水、簡易食、簡易燃料などトラック150台分。これらの物資は同胞だけでなく、日本人被災者にも幅広く行き渡った。義援金は本国政府の50万ドルをはじめ、在日・本国・海外同胞らから6億5000万円にものぼる。

人的支援でも、「在日韓国人医師会」が医師・看護婦28人を現地に派遣。ほかにも数えきれないほどの青年・学生がボランティアとして救援活動に活躍した。

最近でこそ日本の金融機関は、在日同胞企業への融資の壁を低くしたと聞く。だが、80年に国民・住宅金融公庫が開放されるまでは門前払いにされていたケースが多かった。同胞の経済問題を解決するため、民団は信用組合を各地に設立し、同胞企業への資金需要に応えていった。

日本の景気は、50年に始まった韓国動乱を契機に急激な立ち直りを見せ、設備投資が急拡大する好況期を迎えた。ところが、日本の金融機関は同胞業者に資金を貸そうとはしなかった。そこで「同胞による同胞のための金融機関」を作ろうとの機運が一気に盛り上がり、53年の大阪商銀、愛知商銀をはじめとして60年代にかけて同胞系信用組合が続々と設立された。

現在では、全国に34信用組合、178店舗を持ち、預金量は3兆円近くを誇っている。同胞金融機関は、ほとんどが零細企業の同胞業者にとって、まさに命綱≠ニも言える存在となっている。

民団は70年代に入り、本格的に権益擁護運動に取り組み始めた。公営住宅への入居は、50年代に出された建設省からの一通の通達によって、20年以上もの長きにわたって門を閉ざされた。自治体が実施する老人に対するバス優待制度は、在日同胞を除外していた。

このような社会福祉制度は当時200種類にものぼっていた。「税金などの義務を等しく果たしているのに、なぜ権利は与えられないのか」との声が出るのも当然の状況であった。

民団は、全国的にこの種の差別、不公平の是正を求めて立ち上がった。「権益擁護運動」はその後、社会保障制度から指紋押捺制度、91年問題へと引き継がれ、民団の中心事業として現在まで続いている。

人道的立場から、長期にわたり離散状態が続いていた朝総連系同胞に母国訪問の道を開いた母国訪問団事業。数十年ぶりに肉親との再会を果たす姿は、在日同胞のみならず韓国全土に深い感銘を与えた
故朴正煕大統領をして、「民団があったからこそ可能だった」と言わしめた総連系同胞の母国訪問団事業は、数々の人生ドラマを故国で演じさせた。7・4共同声明を受けて75年に始まった同訪問団は、数十年ものあいだ故郷の土を踏めなかった総連系同胞に希望の扉を開いた。

これまでに故国の地を踏んだ総連系同胞は約4万5千人。総連の執拗な妨害にもかかわらず、ある人は地元からの出発を避け、ある人は日本国内の旅行に行くと嘘をついて故郷の土を踏みしめた。同訪問団事業は昨年、20周年を迎えた。今後も故郷にいる肉親との情を確かめあおうとする姿は絶えないだろう。

これらの事業は、個人の力では解決は困難なことばかりである。公営住宅の入居資格は、民団が乗り出していなかったならあれほど早く解決しなかったであろう。また母国訪問団にしても、民団の力がなかったならば総連系同胞は未だに故郷の土を踏んでいないかもしれない。

「ひとりは万人のために、万人はひとりのために」と言われる。民団はまさに「同胞のために」を実践してきた。


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