田中江の集落の真ん中を、朝鮮人街道が横断する。私は街道の脇道を暫く歩いたところで、区画の定まらない墓地を見つけた。風雨にさらされ黒ずんだ「木の墓標」。村の人から聞いた話では、90戸近くの世帯の人が埋蔵されている。
たまたま庭で盆栽に手を入れていた老人に近づき、朝鮮人街道のことを尋ねてみる。彼の話では、私が立っている場所は小舟が往来できるぐらいの川が流れていた。そして前方の小屋のところに大きな水車が回り、石臼が24箇も並んでいたという。
村人たちは米を船に乗せてここまで運び、米踏みをしたのである。目を地面に向けると、雑草が生えているところから微かに石畳や雁木の名残が覗く。
昭和になり、仁保橋から加茂町に新しい県道が通ったことで、軒を連ねていた呉服屋、饅頭屋、酒屋などが姿を消したり、県道などに移り、いつの間にか、この界隈は寂れてしまった。しかし朝鮮人街道が裏街道となってしまったことで、今でも街道の風情が保たれているようだ。
江戸時代の近郊農村地帯では、農業以外にも木綿や野菜の栽培が効率的に行われていた。朝鮮通信使は川を利用した水車のある風景にとても興味を持ったようだ。
第11回目(1764年)の朝鮮通信使の記録として「日東壮遊歌(にっとうそうゆうか)」金仁謙(キム・インギョム・退石)が残した言葉がある。
「河の中に水車を設け 河の水を汲み上げ その水を溝へ流し込み 城内へ引き入れている その仕組みの巧妙さ 見習って造りたいくらいだ」
朝鮮に水車の技法を持ち帰るため、小まめにその仕様などを書き写したが、雨が多い日本では効率的に水車が動作したが、乾燥がちな朝鮮の気候では、水車の隙間に歪みができ、軽やかに回転はしなかった。自然環境の違いから、朝鮮での水車の継続は難しかったようだ。
私は4月に行われる田中江町・日枝神社の火祭り用の傘松明(たいまつ)を撮影。しばらくしてからもと来た道を引き返し、小船木町から城下町として栄えた近江八幡に向かった。
藤本巧(写真作家)
(2019.03.20 民団新聞)