去年の夏、ソウル市内で王宮めぐりをした。景福宮から慶熙宮までは徒歩で10分くらいだったが、あまりに猛暑だったのでタクシーを使った。年配の運転手さんに「慶熙宮までお願いします」と言ったら、「どこ?」という反応だった。 「5大古宮の1つに数えられている慶熙宮を知らないとは……」 そうは思ったのだが、よくよく考えてみれば、歴史の荒波の中で慶熙宮がたどった経緯からして、運転手さんの反応も仕方がないのかもしれない。 1592年、長く朝鮮王朝の正宮としての役割を果たしてきた景福宮が、豊臣軍の攻撃の際に焼失してしまった。戦乱が終わっても、王は住む場所にさえ困るようになった。そんな状況の中で、1617年に建設が始まって1623年に完成したのが慶熙宮だった。以後、ここは歴代王の住まいとして大変重宝された。 当初は慶徳宮という名称だった。しかし、16代王・仁祖の父であった元宗の諡号(しごう)と発音が同じという理由から、1760年に名称が慶熙宮に変更になった。とはいえ、王宮としての佇まいを残していたのは朝鮮王朝時代までだった。植民地時代には旧来の建物が撤去されて日本人学校の京城中学校が建てられた。その時点で敷地も半分以下になってしまった。 さらに、韓国が建国されたあとは、ソウル高等学校になった。その段階で、ここがかつての王宮であったことを人々は忘れてしまったのである。 転機となったのは、ソウル高等学校が移転したことだ。1987年から慶熙宮の復元工事が始まり、2002年から一般に公開されるようになった。100棟以上の荘厳な建物が並んでいたという往時と比較することはできないが、それでも王宮の主要な建物が復元されたことで、慶熙宮は再び王宮としての輝きを取り戻した。 しかし、冒頭で紹介した運転手さんの反応からもわかるように、「誰もが知っている場所」とは言えなかった。認知には、まだまだ時間がかかるのだ。 ところで、この慶熙宮を他のどの王よりも愛したのが22代王・正祖だった。「朝鮮王朝実録」の1776年3月10日の項には次のような記述がある。 「王が慶熙宮の崇政門で即位された」 このように、政治改革に情熱を燃やした名君の治世は慶熙宮で始まったのである。しかし、正祖は慶熙宮での生活を望みながら、それを全うすることができなかった。それはなぜなのか。 実は、1777年7月28日の深夜に、暗殺団が慶熙宮に侵入して正祖の命を狙うという事件が起こったからだった。 ドラマ「イ・サン」でも、正祖が暗殺の危機に直面するシーンが何度も出てきたが、それはフィクションではなく「朝鮮王朝実録」にも記載されている事実だったのである。 厳重な警備によって正祖は暗殺されずに済んだが、慶熙宮は構造的に賊の侵入を招きやすいと判断され、正宮は昌徳宮に移された。王に去られた後の慶熙宮は、さぞかし寂しくなったことだろう。 康煕奉(作家) (2013.4.12 民団新聞) |