朝鮮王朝は統治理念の根本に儒教を取り入れた。その儒教において、最高の徳とされたのが「仁」である。もとの意味は「いつくしみ」や「思いやり」ということであるが、その漢字を尊号に入れた王は、歴代27人の中に2人いる。それは、12代王・仁宗と16代王・仁祖である。 仁祖については前回で触れた。長男の一家を滅ぼすような無慈悲の王で、「仁」という漢字が入った尊号が虚しく響くほどだ。逆に、仁宗のほうは、その尊号がふさわしい王は他にいないと思わせるほどの存在だった。まさに、人徳がある王であった。 残念ながら、仁宗の在位は歴代王の中で一番短かったのだが、それでも彼が歴史上で有名なのは、大変な親孝行だったからだ。特に、父の中宗が病に倒れてからの献身ぶりは語り草になっている。 中宗は1544年11月に重病となったが、長男の仁宗は父の病床に詰めて自ら看病にあたった。しかも、その合間に祈祷を欠かさず、一心不乱に父の病状回復を祈り続けた。 実は、仁宗は生後まもなくして実母を失っている。それだけに、母の分まで父に孝行を尽くしたいという気持ちが強かったのかもしれない。 それでも、仁宗の孝行心は度が過ぎていた。極め付きは、食を断ってしまったことだ。願掛けの1つとはいえ、絶食することによって仁宗自身も衰弱していった。 そのときの様子が1544年11月18日付の「朝鮮王朝実録」に詳しく記されている。その記録を見ると、仁宗の側近はこう嘆いている。 「世子(王の後継者で、ここでは仁宗のこと)は、お粥さえ絶対に召し上がりません。何度も『お食べください』と申し上げても聞き入れてくださらないので、(側近たちも)心配でなりません。昔から、亡くならない君主が果たしていらしたでしょうか。国家のことを憂慮されておられるのなら、無理やりでもお粥を召し上がってくださればよろしいのですが……」 側近たちの心配もよくわかる。いくら親孝行とはいえ、次の時代を担う世子が絶食によって体調を崩せば、それこそ王家は最大の危機を迎えてしまうのだ。結局、大臣たちがこぞって説得して、ようやく仁宗はお粥を少し食べ始めたという。 その直後に、ついに中宗は亡くなった。仁宗は、この世の悲しみをすべて集めたかのように、地に伏して慟哭し続けた。 しかし、いつまでも嘆いてばかりはいられない。自分が即位して、朝鮮王朝の最高権力者として国家を統治しなければならない。 その点では期待も大きかった。仁宗は頭脳が明晰で、性格も申し分がなかったからである。彼が長く王権を維持していれば、朝鮮王朝はまれなほど安定した時期を迎えたことだろう。 しかし、彼の治世は、わずか8カ月半に過ぎなかった。まだ30歳であったのに、なぜ仁宗は早く世を去らなければならなかったのだろうか。 そのことについては、次回で詳しく触れてみたい。 康煕奉(作家) (2013.3.6 民団新聞) |