江陵は歴史的に忘れることのできない2人の女性を生み出した。一人は前回とりあげた許蘭雪軒。もう一人がこの人、申師任堂(1504〜1551年)である。朝鮮の儒学を大成させた栗谷李珥の生母で、良妻賢母の鑑のように敬われる。5万ウォン札の肖像の女性と言えば通りがよいだろうか。ちなみに息子の李珥は5千ウォン札に顔を出す。 申師任堂の実家で、李珥を生んだ家は烏竹軒といい、江陵市街から鏡浦湖に向かう中ほどにある。訪ねてみて驚いたのは、その規模と立派さだ。広大な敷地には伝統家屋に加えて祠堂や記念館などが建ち、ある種の聖地のように顕彰、保存されている。 「烏竹軒は我が国の母親の師となる申師任堂が生まれ、また偉大な経世家にして哲人、政治家であり救国愛族の大先駆者である栗谷李珥先生の生まれた所である」―。現地の案内板の書き出しを読んだだけでも、この地を包む空気は察しがつくだろう。 本来の烏竹軒は母子が暮らした木造住宅で、周辺に烏を思わせる黒い竹が多いためにその名がつけられた。申師任堂は李珥を出産する前に龍の夢を見たといい、その部屋は夢龍室と呼ばれる。庭には当時から伝わる古い梅や松の木があり、屋敷ともども「聖母子」の記憶を守っている。 申師任堂は大学者の生母としてだけ記憶されるべき女性ではない。自身も詩文や絵画の才に恵まれていた。家族はそういう彼女の才を愛し、嫁いだ後も夫は妻の描いた絵を自慢して人に見せたという。ともに16世紀の朝鮮に生きながら、才ゆえに苦衷に閉ざされた許蘭雪軒との差は大きい。 もっとも、代表作として知られ38歳で都に移る道中で詠んだ「大関嶺を越え親の庭を望む」の詩は、「慈親鶴髪在臨瀛 身向長安独去情(白髪の慈母は海辺にあって 都に向かう私は独り思いを残して去る)」といった具合で、孝道にかない儒教道徳を体現しており、「聖母」のオーラに影をさすものではなかった。ただ正直に言うと、あまりに立派すぎる気がして距離を感じてしまう。その距離感を拭えぬまま、烏竹軒の広い敷地をとめどなく歩いた。 ところが、はたと気づいたのである。良妻賢母とは趣の異なる顔に出会ったのだ。彼女が得意とした絵画のうち、「草虫画」と呼ばれる一連の静物画がその鍵となった。草花に蝶や昆虫を配して描いたものだが、実にリアルで生き生きとし、小さな命への共感に満ちている。儒教道徳の枠を超え、時代をも超えて、ナチュラリストとしての申師任堂が輝いているのだ。草花と虫の組み合わせや筆致は、17世紀オランダ絵画との類似さえ感じさせる。 烏竹軒の広い敷地の一角には、「草虫図」に描かれた植物を集めた花壇が造られている。草花を見ていると、慈愛をもってその命に注がれていた申師任堂のやさしい眼差しが返ってくるような気がする。 李珥という大儒学者を生んだゆえに、「聖母」として崇め奉られてきた申師任堂。江陵の豊かな自然の中に生きた一人の女性として、先入観を廃したアプローチが求められていると感じた。 多胡吉郎(作家) (2014.1.15 民団新聞) |