朝起きると、窓の向こうに青い海が広がっていた。慶尚南道統営市、かつて忠武市と呼ばれた港町だ。いずれもある武将の記憶をその名に留める。忠武公李舜臣。豊臣秀吉が起こした壬辰倭乱の際、水軍の将として秀吉軍を苦しめ、国を救った英雄である。 名将の輝ける戦歴の中でも大勝利として語り継がれているのが、1592年7月の閑山島海戦である。釜山上陸から3カ月、陸では破竹の勢いで侵攻した秀吉軍に対し、海ではストップがかけられたのだ。やがて戦況が膠着し戦争が長期化すると、李舜臣は三道水軍の作戦本部=統制営を閑山島に置く。現在の市の名はこれに由来する。 閑山島は統営から船で30分ほどの距離にある。小型のフェリーは、いくつもの島を縫うようにして進む。島影が次々と現れ、島かと思えば陸だったり陸かと思えば島だったりと、変幻自在だ。 船を降り、同じ道を行く韓国人の親子連れがあった。40代半ばの母親が10歳前後の娘に話しかけていた。「オンマが日本へ行った時、日本人が李舜臣将軍を大変に尊敬していると聞いたの。日本から見れば敵軍でも、将軍の作戦があまりに見事なので敬われているそうよ」―。 波止場から10分たらずで統制営の跡地に着く。1593年から97年まで、ここに740人の水軍兵が駐屯した。今では制勝堂や戍楼が復元され、忠武祠が李舜臣の霊を祀る。閑山島海戦を図説した大パネルがあった。今しがた船で通ってきた海がまさに激戦の現場だったことに驚く。 事の次第はこうだ。閑山島の北側、見乃梁の海峡の先までおとりの船が差し向けられる。そこには脇坂安治らの率いる秀吉軍の船団が集結していた。敵船を発見した脇坂は功にはやり、引き返す敵船を追って海峡に突進する。脇坂軍が海峡を抜けると、島影に待機していた朝鮮水軍60隻がにわかに現れ、鶴が翼を拡げた形の鶴翼陣を敷き、敵を囲い込んで猛攻を加えた。脇坂は慌てて退却を図るが潮流が変わって果たせず、多くの船を失う。複雑な地形と潮流を計算した李舜臣の見事な勝利であった。 李舜臣はよく戍楼にのぼり、四方の山から送られてくる信号で敵軍の動静を把握した。時にはここで詩も詠んだ。「閑山島に月あかき夜、戍楼にのぼり、太刀を撫で、深く愁うる時に、どこからか笛のひと声、愁いを更に添える」―有名な「閑山島歌」だ。 朝鮮王朝は、名将の力を充分に生かしたとは言いがたい。水軍の中にも嫉妬めいた対立があり、党争に明け暮れる朝廷では、讒謗により李舜臣を獄につなぎ死刑にしようとする動きまであった。名将の愁いは幾重にも深くならざるを得なかったのである。 再び船に乗り統営に戻ると、ロープウエーで弥勒山にのぼった。標高461メートルの山頂から、海が一望のもとに見渡せる。閑山島から視線を右に移せば、やはり李舜臣が秀吉軍を打ち破った唐浦の古戦場が見えてくる。 青い海原に宝石の群れのような島々が浮く。ここから西の麗水まで、閑麗水道と呼ばれる絶景が続く。まさに、李舜臣の海であった。 多胡吉郎(作家) (2013.11.20 民団新聞) |