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<在日社会70年>ひたむきに前見つめつないだ在日魂

 日本の敗戦=祖国光復の1945年8月15日を在日同胞はどう迎えたのか。新型爆弾が広島、長崎に続いて東京に落とされるとのうわさが消えず、「重大発表」の通告があった14日、天皇が本土決戦を宣言するのではないか、との見方さえあった。雑音混じりの「玉音放送」は多くの同胞にとって意味不明だった。その意味が理解できたとき、それぞれの胸に去来したものは千差万別だった。ある者は歓喜に酔い、ある者は敗戦ショックに打ちひしがれた。自叙伝などから当時の同胞たちの率直な心情をのぞいて見た(氏名・出生年・主な経歴・出典の順)。

■□
8・15光復その時在日同胞は

皇国臣民の呪縛

 植民地支配下で「皇国臣民」になり切っていた同胞は少なくない。

 「悔しくて悔しくて、涙をポロポロこぼして泣きました。他の朝鮮人の院生(少年保護院)たちも同じでした。みんな日本人と同じ教育を受けて育ち、気持ちは日本人そのものだったのです。戦闘機の天蓋を開けて低空で飛んでくるアメリカの飛行士を、赤鬼を見るように憎しみの目で見ていたのは、私たち朝鮮人も同じだった」(金嬉老・28年・元無期懲役囚・「われ生きたり」)

敗戦信じられず

 「朝鮮文字では『アイウエオ』の『ア』一つ書けない植民地育ちの皇国少年でありました。そればかりか、神国日本の敗戦が信じられなくて、十日ばかりはろくろく飯も喉を通らぬほど打ちしおれていました。山をどよもすほどの歓呼のうねりの中で、私はそれでも神風が吹くのを待っていたのです」(金時鐘・29年・詩人・「わが生と詩」)

涙したのは不覚

 「これで戦場へ出かけて死ぬという、わたしの目的は永遠に失われてしまった。その悲しみから涙を流したのだと、わたしは思う。それにしても泣いたのは一生一代の不覚、末代までの恥」。(朴四甲・27年・労務者・「百萬人の身世打鈴」)

日本が負けた?

 「終戦のときは釜山にいて、進学先を探していた。ラジオで終戦を知っても、皇民化政策の影響で日本人化されていたから日本が戦争に負けて良かったという気持ちにはならなかった。日本は戦争に勝つものだとばかり思っていたので、『日本も戦争に負けるのか』と驚いた記憶がある」。(黄昌柱・27年・民団神奈川県本部団長・「マイウェイ〜共に栄える〜」)

先輩笑顔に驚き

 「朝鮮人作業員だけが広場に集められて、採鉱主任が『一億総懺悔しなければ、天皇陛下に申し訳ない』と、ボロボロ涙を流しながら、ぶちました。その言葉につられ、涙が出そうになるのを堪えて左右を見回すと、なんと同胞の先輩たちは嬉しそうに笑っているのです」(金文善・26年・鉱山工・「百萬人の身世打鈴」)

虚脱感と安堵と

 ほっとした思いと虚無感、そして突き抜けるような解放の喜びが広がっていく。

 「戦争は終わった。民族は解放された。虚脱感とともに、これで生き残ったという安堵感がまっさきに起きた。力尽きて降伏した日本に一抹の虚しさを感じた」(権逸・11年・民団中央本部団長・「権逸回想録」)

らんちき騒ぎに

 「自分たちは戦争に勝った。もう日本の植民地ではないということで、いくらか余裕のある同胞は飲んだり食ったりの大騒ぎだった」(金三植・25年・民団埼玉県本部団長・「山河を越えて」)

「万歳!」に興奮

 「あちこちから『マンセー』の叫び声が上がりだし、『朝鮮万歳』や『独立万歳』の声が、ひっきりなしに叫ばれた。路上は、興奮し陶酔する人達が引きも切らず、多くの人の声と群衆の歓喜の高まりで、まるで祭りのようになってきた。あちこちの家から、ドブロクが持ち出されて、鐘や太鼓のチャングが鳴らされ、歓喜の渦は、その夜の遅くまで繰り広げられた」(朴憲行・18年・民団兵庫県本部監察委員長・「軌跡 ある在日一世の光と影」)

軍が襲うって?

 恐怖を味わった同胞もいる。

 「玉音放送の後、先輩達から絶対表通りに出るなと、きつく言われた。過去大正十二年の関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが飛び、自警団によって六〇〇〇人以上が虐殺されたのである。万一、戦争に敗れた腹いせに自警団や退役した軍人が我々を襲ってくるかも知れない。皆は大きな不安を感じながら、一週間程家から一歩も外に出ることなく部屋に閉じこもっていた」(趙忠來・29年・民団神奈川県本部団長・「ふるさとの灯よとこしえに」)

続けた竹槍練習

 「先生は、もし、アメリカ軍が来れば、婦女子が真っ先に殺されるとお説教し、その日は暗くなるまで竹槍の練習をさせられました」(高甲淳・34年・主婦・「百萬人の身世打鈴」)

意味がわからず

 「ラジオから天皇陛下の声が流れてきました。しかし、私は意味がわかりません。『今の何ですか?』『天皇陛下が戦争に負けたと宣言したんです』周りの人たちは、皆泣き崩れました。まもなく、女の子はおもちゃにされるという噂が流れ、大騒ぎになりました。大家さんは娘さんたちを疎開させました」(朴玉姫・26年・「生死海を尽くさん 朴玉姫ハルモニの在日74年」)

生活の不安が先

 解放の喜びとは別の次元で、これからどう生きるのか、同胞たちの目の前には冷静に対処すべき切実な生計問題があった。

 「『われわれは、その日解放の喜びにひたった』などという同胞の声をその後私はよく耳にしたが、私には特に喜びという感情はなかった。時代がどうころんでも日本にいるかぎりわれわれの生活は変わらない、と何となくそんなふうに思っていたのである」(李鍾大・19年・横浜商銀理事長・「玄海灘の波濤を越えて」)

帰国か否か議論

 「私たちは朝鮮に帰らないと。当然、朝鮮のために働かなければならないのだ。在日同胞は三々五々集まって、これからの身の振り方について、様々な意見で甲論乙駁していた。核心はやはり朝鮮に帰るべきか否かであった」(朴炳憲・28年・民団中央本部団長・「私の歩んだ道」)

希望に燃えてた

 「『これでわれわれは、ようやく解放されたんだよ』とみんな口々にいい合って喜んだ。『さあ、故国へ帰れるぞ。帰ってみんな故国のために働くんだ』。どの顔も希望に燃えて明るかった」(鄭煥麒・24年・民団愛知県本部団長・「在日を生きる」)

 

■□
どう変わった 法的地位
「永住者」の規制緩和…民団中心に運動ねばり強く

 敗戦後の日本政府は在日同胞に対し、「まだ日本人」・「すでに外国人」という立場を巧みに使い分けてきた。「外国人」としての権利を否定し、「日本国民」としての権利も与えなかった。

不当な使い分け

 例えば、同胞が切実に必要としていた民族教育を、日本国民なのに外国人としての教育をしてはならないとの理由で弾圧し、制約を加える半面で、45年12月には在日同胞から参政権を剥奪。47年5月には旧憲法下最後の勅令として公布、施行した「外国人登録令」の対象としたのに続き、51年10月には「出入国管理令」を公布、さまざまに在留資格を規定した。

 52年4月のサンフランシスコ講和条約発効を機に、旧植民地出身者は「日本国籍」を喪失し「外国人」になったと通達した。しかし、「外国人」になったからといって、出入国管理令に定められたいずれかの在留資格に、在日同胞を振り分けるのは容易ではなかった。そこで、暫定措置を盛り込んだ法律を付随的に制定し、「別に法律で定めるところにより、その者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく、本邦に在留することができる」とした。これは、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」というのが正式の名称である(略称「法126」)。

 そこで「予告」された「別の法律」は、いっこうに制定されなかった。むしろ、講和条約によって連合国軍総司令部から自由になった日本政府は、日本人戦争犠牲者への援護法を相次いで制定しながら、「日本国民」として徴用した同胞の軍人・軍属とその遺族を援護法の対象外とした。徴用当時は日本国民であっても、これらの法律ができた時点では日本国民ではない、という理不尽な理由からだった。

 在日同胞の法的地位が「在留資格なき在留」から前進したのは、50年前の65年6月の韓日会談妥結によって確定した「韓日法的地位協定」によってである。45年8月15日以前から引き続き日本に居住している者(「法126」該当者)及びその直系卑属で協定発効から5年以内に出生した者は、所定の期間中に日本政府に申請すれば「協定永住」が「許可」されることになったからだ。

 ついで、81年に入管令が入管法に改定された際、協定永住を取得しなかった者(約27万人)に、「特例永住」を許可する制度が導入され、82年から5年の間に申請があれば無条件に永住を許可することになった。

91年まで再協議

 地位協定が締結された時点で、91年1月16日までに再協議することになっていた「協定永住3世」以降の子孫に対する処遇は、韓日両国の協議結果、永住権が自動的に与えられることで確定した。日本政府は91年11月、「入管特例法」によって「法126」「協定永住」「特例永住」などに分かれていた在留資格を「特別永住」に一本化し、再入国期限も5年に延長した。

 在日を中心としたねばり強い反対運動の結果、93年1月には改正外国人登録法の施行により特別永住者・永住者の指紋押捺制度が廃止された。

 2012年7月には、外国人登録法の廃止に伴い特別永住者証明書、在留カード(一般永住者の場合)に移行。また、同年7月以降、「見なし再入国許可」制度により、1年以内に日本に戻る時は再入国許可を受ける必要がなくなった。再入国許可の有効期限も特別永住者は6年となった。特別永住者証明書については常時携帯義務が免除された。

この迫力を見よ
兵庫県の同胞たちによる光復節1周年記念のパレード。連なるトラックの車体に横幕、竹竿にスローガン、太鼓に太極旗と威風堂々だ。この勢いで民団結成へと動いた

出入国管理法案反対で共闘
「同化」か「追放」(強制退去)の二者択一を迫るものとして在日同胞の怒り爆発(69年6月19日、東京・日比谷公会堂での華僑団体との共催による「韓中共同決起大会」)

涙、なみだの再会
民団は75年から「総連系同胞の母国訪問団事業」を推進した。これまでに4万5000人以上の総連系同胞がこの事業を通じて韓国を訪問、肉親との再会を果たした。「北送」と際だった対照をなした

「死の申請『永住権』を取り消しカイライ『韓国籍』を朝鮮に直そう!」
民団は66年から71年まで韓日協定にともなう「永住権申請運動」を推進、総連の「強制徴兵と財産収奪を狙う『永住申請』強要に反対しよう」などとする執拗な妨害をはねのけ、有資格者56万人中36万5000人の申請をはたした(民団石川の戸別訪問)

総連の反対立て看

新たな不幸生んだ北送
59年に始まった北送事業は北韓の指示のもとに総連が日本政府、日本赤十字社や政党、報道機関を巻き込み、民団の猛烈な反対運動を押し切って推進された。84年末まで9万3000人もの在日同胞(日本人配偶者含む)が「地上の楽園」という虚偽宣伝に乗せられ北韓に「帰国」。新たな離散家族を生んだ(新潟港を出港する北送船)

「未来は自分の手で!」
65年の韓日法的地位協定から25年後、協定3世以降の同胞の処遇をめぐる「91年韓日再協議」を前に、民団は子々孫々の安定した法的地位を求め全国で要望活動を展開した(高知市で行われた四国地協の決起集会後、デモ行進の先頭に立つ少女)

「指紋は押さない」
在日韓国青年会は外登法改正運動の第2弾として「指紋拒否東海道人権行脚隊」を常時約30人で構成、85年2月8日に神戸を出発した。東海道を歩きながら、連日法改正の世論喚起に努め、3月1日に東京・日比谷野外音楽堂で開かれた民団の「外登法・指紋押捺・常時携帯制度撤廃要求在日韓国人中央大会」に結集した

「ア・ヤ・オ・ヨ」
民団愛知から始まった「民族教育50時間履修義務制」の伝統は引き継がれ、在日子弟の民族教育に生かされている(70年代半ばの民団江東支部オリニ夏季学校)

生計支えたパチンコ店
青森は八戸、55年頃だろうか。新装開店のパチンコ店前の集合写真。地元の新聞広告に『椅子附パチンコ明るい店舗で気軽に遊戯スリル萬点最大のサービス』とある。新聞見出しに『業者はビクめくパチンコやるか、換金取締り』ともあった。いわゆる「景品買い」で生計をたてた同胞は多い。今やテレビでホールのCMが流れる。隔世の感ありだ

「地方参政権を!」
地域住民の権利として、民団はねばり強く獲得運動を推進してきた。01年の「6・5決起大会」には、全国から4000人が東京の日比谷野外音楽堂に結集し、早期の立法化を求めて目抜き通りをデモ行進。07年の「11・7全国決起大会」には5000人が参加し、都心を行進した

初の祖国で緊張?
66年から始まった母国夏季学校には毎回、800人前後の在日同胞大学生・高校生が参加。ウリマルや歴史を学び、国立墓地や前線部隊訪問、慶州などへの観光、本国同胞との交流を図る民泊もあった(72年、806人が参加した第7回)

新旧コリアンタウン
大阪・生野区の御幸通商店街は解放前から「朝鮮市場」と呼ばれ、同胞にとってなくてはならない故郷のような存在だ。韓国食品に対する人気から日本人客も増えた。

東京・新大久保のコリアンタウンは新定住者がつくりあげてきた。路地裏まで韓国料理店が並び韓流ファンや観光客でにぎわう

在日社会70年
45年 日本敗戦、祖国解放(8月)
朝鮮人帰国者乗せた「浮島丸」舞鶴港で沈没、549人死亡(8月)
在日朝鮮人連盟(朝連)結成(10月)
朝鮮建設促進青年同盟(建青)結成(11月)
日本、在日朝鮮人・台湾人の参政権停止(12月)
46年 新朝鮮建設同盟(建同)結成(1月)
在日本朝鮮居留民団(民団)結成(10月)
日本、在日朝鮮人の帰国計画輸送中止発表(12月)
47年 最後の勅令、外国人登録令公布・即日施行(5月)
48年 阪神教育闘争(4月)
大韓民国樹立(8月)
朝鮮民主主義人民共和国樹立(9月)
民団、在日本大韓民国居留民団に改称(10月)
49年 GHQ・日本政府、朝連など4団体に解散命令(9月)
朝鮮学校閉鎖令発令(10月)
50年 6・25韓国戦争勃発(6月)
朝鮮祖国防衛中央委員会結成(6月)
在日学徒義勇軍結成、642人参戦(8月)
大村収容所(長崎県)開設(12月)
51年 在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成(1月)
出入国管理令(入管令)及び入国管理庁設置令を制定公布(10月)
52年 サンフランシスコ講和条約発効
在日韓国・朝鮮人の日本国籍剥奪、外国人登録法施行(4月)
53年 韓国戦争休戦協定締結(7月)
55年 外国人登録法に基づく指紋押捺制度開始(4月)在日本朝鮮人総連合会(総連)結成(5月)
58年 小松川女子高校生殺害事件(李珍宇事件)(8月)
在日朝鮮人帰国協力会結成(11月)
59年 民団「北韓送還反対委員会」結成(2月)
在日朝鮮人帰国のための朝日赤十字協定調印(8月)
第一次「帰国船」新潟港出港(12月)
65年 韓日基本条約締結、在日韓国人法的地位決まる(6月)
66年 在日韓国人の協定永住申請受付開始(1月)
協定永住権取得者に国民健康保険法適用(4月)
68年 金嬉老事件(2月)
東京都知事、朝鮮大学校を各種学校として認可(4月)
70年 朴鐘碩、日立製作所相手に就職差別訴訟起こす(12月)※74年6月勝訴
74年 文世光事件<朴正煕大統領暗殺未遂事件>(8月)
75年 総連傘下同胞の「母国(韓国)省墓団」始まる(4月)
77年 最高裁、外国籍・金敬得(韓国)さんの司法修習生任用認める(3月)
民団「在日韓国人人権擁護委員会」設置(3月)
82年 難民条約発効に伴い特別永住制度実施、国民年金法の国籍条項撤廃(1月)
83年 民団、「指紋押なつ・常時携帯制度の撤廃100万人署名運動」(9月)
85年 日本改正国籍法施行、父系血統主義から父母両系血統主義に変更(1月)
民団、「指紋押捺留保運動」推進(7月)
86年 国民健康保険法の国籍条項撤廃(4月)
91年 韓日外相、法的地位協定に基づく協議結果「韓日覚書」署名(1月)
協定永住、特例永住を一本化した特別永住制度開始(11月)
93年 改正外国人登録法施行、特別永住者・永住者の指紋押捺制度廃止(1月)
94年 民団、在日本大韓民国民団に改称(4月)
95年 阪神・淡路大地震、130人以上の同胞が犠牲(1月)
最高裁、「永住者等の地方参政権付与は憲法上禁止されていない」との判断示す(2月)
96年 川崎市、都道府県・政令指定都市で初めて職員採用試験の国籍条項撤廃(5月)
05年 東京都外国籍職員の管理職昇任試験拒否訴訟で最高裁判決、原告の鄭香均敗訴(1月)
09年 「永住外国人地方選挙権付与法案」衆議院解散により廃案に(7月)
11年 東日本大震災、同胞15人が犠牲(3月)
12年 韓国第19代国会議員選挙、在日韓国人にとって初の在外投票(4月)
外国人登録法廃止に伴い特別永住者証明書、在留カードに移行(7月)
韓国第18代大統領選挙、在日韓国人にとって初の在外投票(12月)
13年 外国人住民も住民基本台帳カード取得可能(7月)

(2015.8.15 民団)
 

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