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1軍めざし、晴れ舞台に
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片道キップを手に韓国へ
プロへの夢咲かす
◆サッカーとの出会い
昨年暮れに、在日同胞としては初めての韓国プロサッカー選手(Kリーガー)が誕生した。埼玉県在住の在日三世、任泰亨君(20・浦項スティラーズ)だ。
任選手は、父親もかつてサッカー選手だった影響から、民族学校(朝鮮初級学校)に入学以来、サッカーを始めた。家でも学校でも遊ぶものといったらサッカーボールだけ。そんな任君はめきめきと実力を付け、小学6年の時には朝鮮初級学校の全国選抜代表チームにも選ばれた。
そのころ日本ではJリーグが産声をあげた。このようなサッカー熱が高まる中、中学生になった任君は千代田CYDクラブチームに入団し、着実にサッカーの実力を伸ばしていった。
◆疲労骨折から復帰
小学、中学と、めきめきと実力を上げた任君は、サッカーの名門校とも言える東京朝鮮高級学校に入学。監督にはその実力を買われ1年から即レギュラーとして活躍した。
しかし、練習の激しさから疲労骨折というアクシデントが襲った。そのため1年半近くボールを蹴ることができなくなった。
一時は「もうサッカーをやめよう」と悩んだが、「ここでやめたら負け」と、ウエイトトレーニングだけは欠かさず続けた。そして、見事に復活した。
◆帝京高校との決勝戦
ただ、むなしかったのは、民族学校が日本の高校選手権大会に出場する資格がなかったことだ。公式試合はなく、ただ民族学校どうしの内部大会や練習試合だけを消化するだけだった。
2年の時、朗報が舞い込んできた。高校サッカー連盟が外国人学校の参加を認めたのだ。
そして高三の時、全国高校サッカー東京都予選では、決勝まで勝ち進んだ。相手は全国でも強豪の帝京高校だ。
ところが任君は予選の時に利き足の右太股を痛めた。監督やコーチ、チームの中にも極秘にし、ドクターに頼んで、痛め止めの注射を打ち激戦に臨んだ。
決勝戦は九〇分では決着がつかず延長の末0−1で惜しくも敗れ、全国大会への切符をあと一歩のところで逃した。
◆韓国との出会い
高校を卒業した任君はその実力を認められ、「朝鮮蹴球団」に入団するが、わずか1年後に球団は解散に追い込まれた。
「これで本当に終わりだ」とサッカーをやめようと思った。父に相談したところ「今まで何のためにがんばったんだ」と怒鳴られた。
そんなとき、父が友人らに息子の話を持ちかけたところ、「韓国で国体がある。在日同胞代表で参加したみたらどうだ」とアドバイスを受けた。そして、すぐに国籍を「朝鮮籍」から韓国籍に変更、今年10月に仁川で行われた韓国国体に在日同胞代表として参加した。任君は、在日同胞チームの要として活躍し、準優勝に貢献した。
「初めて訪れた母国の地はすばらしかった。こんなところでサッカーをやれたら最高だ」。
◆プロ門をたたく
そのまま、日本には帰らず在日大韓蹴球協会の紹介で、韓国プロサッカーチーム・浦項スティラーズの入団テストを受けた。
かつて国家代表として名を轟かせた崔淳鎬コーチの目を引き、球団合宿所でしばらく練習生としてチームと合流し、昨年12月に選手契約をした。
明るくひょうきんな性格の任君はチームメートとすぐに溶けこんだ。すっかりチームの一員となり仲間とはみんな仲良しだ。
◆挑戦はこれから
選手契約といっても当面は控え選手としての登録になる。中・長期的な選手育成が課題と言われた韓国のKリーグでも今年からJ2のようなサテライトリーグが始まる見通しで、任君はまずこの戦いからスタートする。
「今、ここにいることだけでも夢のよう。だけど、在日同胞でも韓国でプロになれると言う意地を見せたい。後輩たちに希望を与えられるようにコツコツと努力して、来年の今頃は上でプレーできることをめざしたい」。
任君のチャレンジというキックオフはこれからだ。
(2000.01.01 民団新聞)
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