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師匠の踊り、日本で伝えたい
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奥の深いサルプリにとりこ
人間国宝に師事
張智恵さんは1962年に大阪市生野区に生まれた在日三世。韓国の伝統舞踊、サルプリチュムと僧舞の重要無形文化財である李梅芳先生に師事し、98年8月に在日同胞3人目の李梅芳履修者に認定された。
◆舞踊の接点は高校時代
舞踊との出会いは高校2年の時。「華やかできれい」とは感じたものの、踊ってみたいとは思わなかった。ところが、難しいものにチャレンジしたいという気持ちを押さえられなくなってくる。踊りで使う「ハナ、トゥル、セ」という言葉を知りたい、衣装に手を通してみたい。大きなものに引かれるように舞踊の魅力にはまっていった。
ある程度踊れるようになってから人前で踊った。すると、見ている人を通して自分にはね返ってくるものがある。自分が日本社会の中でどう生きているのか。つたない自分の踊りを見て、これが韓国の踊りだと感じる人がいるという事実だった。
「生半可な気持ちで取り組んではダメだ」。そういう気持ちでいる頃、李先生の踊りに出会った。ソウルに行き、先生の踊りを自分のものにしてみたいという欲求がもたげてくる。二世の両親も行ったことのない韓国。済州道が本籍地の張家にはソウルに親戚が一人もいない。「地の果てに娘一人送るようなもの」と両親は猛烈に反対した。
その後、カヤグム奏者の池成子先生の発表会を韓国で観たことから、チャンスが訪れる。すでに踊りの世界にいた在日の先輩を通して、李先生とつながっていく。89年のことだ。
◆一人取り残された気分
ところが、李先生の伝統舞踊保存会の門を叩いて圧倒された。韓国舞踊の世界には小さな時から英才教育を受けた人が多い。李先生の元にもプライドの高い弟子が集まっていた。その中に、言葉もできない、踊りも満足にできない自分がぽつんといる。「何しに来たの」という空気が濃厚に漂っていた。
言葉を失う張さんに「海を越えて私の踊りを習いに来てくれた」と李先生は強く受けとめてくれた。先生の家の近くに下宿し、毎日通いながら実の娘のように生活を共にして踊りの「いろは」を学んだ。
90年に親の健康が悪化し、後ろ髪を引かれる思いで日本に戻ったが、先生の踊りを自分の目に焼き付けたい、体に染み込ませたい、と居ても立ってもいられない日々が続く。
◆初舞台に感謝の涙
94年にやっとその夢がかない、再び先生の元へ。舞台衣装のアイロンがけ係だった自分が、初舞台に立たせてもらった。先生への感謝で熱い涙が出た。
96年に大阪に戻ったが、先生の舞台の度に訪韓を繰り返す生活が続いた。98年6月、先生から履修者認定試験を勧められた。自分のレベルは自分が一番よく知っている。試験を受けること自体が恥ずかしかったが、「合否よりも二度とないこの舞台を満喫しよう」と開き直った。
そして後日、「8月に東京に行く。履修書を取りに来なさい」と思いがけず先生から連絡が入った。李先生の踊りを日本できちんと伝えていかなければと身が引き締まった。
現在は大阪で舞踊を教えながら、下は小学生から上は高校生まで学校から招かれて踊る機会が増えた。先日、「誰にも言ってないけど私も在日だよ」と告白する少女がいた。踊りをしていてよかったと思った。
「韓国の良さに出会わないまま背を向ける同胞がいる。私と出会うことで韓国に触れてほしい。それが先生や私を育ててくれた人たちへの恩返し」
(2000.01.01 民団新聞)
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