民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<17>

帰国同胞のチョウ・ヘンさんに聞く



切々と語るチョウさん

見えぬ将来から決心
帰北後は無心の便りばかり

 約40年前の1962年12月11日、東北大学大学院に在学中の゙浩平さんは、日本人妻の小池秀子さんと2人で北韓に「帰国」した。新潟で運送業や金銀分析業の仕事一筋に打ち込んできた父は、「出刃包丁を振り回して長男の帰国を反対したが、止められなかった」と、5歳年下の妹、゙幸(チョウ・ヘン)さん(58)は当時を振り返る。

 父は地元の民団県本部が創立される時には、会館建設のほとんどの資金を提供したものの、普段は民団とも朝鮮総連とも一切関わらなかった。共産主義を徹底的に嫌い、「人間の社会に共産主義というのはありえない。金日成はにせものだ。アメリカが入った南の方が早く民主化するし、故郷は慶尚南道だからソウル大を出て南に帰るというなら話もわかるが、北に行くとは何事か」と大騒ぎになった。


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苦悩の末の「北帰行」

 事件が起きるのを恐れた日本人の母(韓国籍)は、浩平さん夫婦を旅館に向かわせ、父の気持ちが静まるのを待った。父は「祖国を愛したことが、こんな結果になってしまった。すべて俺の責任だ。息子にすまない」とポツリと語った。長男を失った悔しさ、悲しさ、北への恨み、辛みをこの言葉に凝縮し、82歳で亡くなる時まで引きずっていたという。

 浩平さんが家族の猛反対を押し切ってまで北に向かったのはなぜか。それは、「将来に対する絶望と妻の秀子さんが率先して新天地行きを勧めたから。教授への道も閉ざされていた」と幸さんは言う。

 「帰国」直前に家族にあてた手紙によれば、「日本にこれ以上とどまっても何ら希望がないのです(中略)。考えに考えた末『本当にその為にノイローゼ気味な位に』決心したのです」と心情を吐露している。


「帰国」船に乗船した兄の゙浩平さん(左)
と夫人の小池秀子さん(右)

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情熱あふれる手紙

 浩平さんからの手紙がその年の4月に届いた。そこには、「2月20日に咸興医科大学の生理学教員として配置された」「国をあげて漢方医学を研究する党の方針を医学研究生として理解し、問題解決することが使命」などと書いてあった。

 日本の家族に心配をかけまいとしてか、若い情熱がほとばしる文面だったが、受け取った家族は違う気分にさせられた。便箋が終戦直後に出回ったトイレの落とし紙以下の代物だったからだ。父は「俺の言った通り何もない国だ」と叫んだ。さらに、元也という日本名で「あとさきに散って帰らぬイチョウかな」と詠んだ句を見て、日本人の祖父は「この一文にあの子の気持ちがすべて込められている」と絶句した。

 家族はその後、医学書や顕微鏡など、浩平さんの研究に必要なものから粉石鹸、調味料などの生活必需品まで、コンテナで数台分を送ることになるが、サッカリンは数百キロにもおよんだという。翌年1月に来た浩平さんの上司(責任教員)の手紙にも医療機器を無心する内容が書かれ、総連を窓口にせずに直接渡す方法まで指示してあった。それは、送った荷物がまともに手元に届かないことを示唆するものだった。

(2000.02.02 民団新聞)



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