民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<18>

帰国同胞のチョウ・ヘンさんに聞く



゙浩平さんと小池秀子さんの手紙など、
帰国後の切実な思いが語られた書簡集

順調な出だしから一転
脱獄の末、家族全員が射殺

 将来を嘱望された若い科学者、゙浩平さんの北韓での生活は他の「帰国者」に比べると順調な滑り出しとなった。

 しかし、1963年2月6日付の手紙には、窮地に追い込まれていることが書かれていた。研究中に借りていた零下100度まで計測できる温度計を壊したために、弁償しなければならないというのだ。学校に一本しかない貴重品だけに、「一生のお願い」と繰り返す心情が痛々しいほど伝わってくる。


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健康悪化で職場放逐

 その年の4月には待望の長男が生まれた。7月には職場も研究所に変わり、学長の下で働くことになった。問題は日本から届いているはずの荷物が、しばしば行方不明になることだった。それでも母に北韓で一緒に暮らすよう勧めたり、日朝間の自由往来を支持する大群衆大会が開かれたと報告するなど、暗さはまだ前面に出ていない。

 8月になると子どもが「敗血症」で生命が危険にさらされたり、浩平さん自身もカリエスを患ったり、大変な時期を過ごすが、64年8月に長女、65年12月に次女が生まれ、一家5人の団らんは守られている。ところが、66年11月にカリエスがこじれると、ついに67年に職場を追われてしまう。

 9月27日付の手紙には、「妻や子はボロを着てまづい物をたべても国の為革命と労働者階級の為にと思って頑張って来たのですが、梨花という2番目の子はクル病で病的骨折で肩輪になってしまうし、小生も健康を害すし妻も間接を病むしで今やソウ浩平一家は満身創痍の形で出るのは苦笑とため息だけです(原文)」と書かれていた。

 そして、12月の手紙には「労働党員として再教育を受けるため教化所へ行く」と書き残し、それを最後に連絡が途絶えた。


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スパイ罪で銃殺か?

 一家が離ればなれになったことを知った家族は、総連に浩平さんの安否調査を依頼したり、寄付も繰り返したが、何の手がかりも得られなかった。73年7月には秀子さんから「家族が4人になってから6年になった」と頼りが届く。秀子さんは強制的に再婚させられていたこともわかった。83年4月、北への1時訪問を申請していた両親にやっと許可がおりたが、訪問直前の7月に総連を通じて取り消された。絶望の末、父は86年、母は90年に他界した。

 95年5月、北韓当局は北送同胞の人権状況を調査しているアムネスティ・インターナショナルに対し、浩平さんを67年にスパイ罪で逮捕したが、74年に脱獄し、妻子とともに海軍の船を奪って逃走しようとする過程で兵士を殺害したため、銃撃戦の末、家族全員を射殺したと報告した。

 日本に残された唯一の家族、幸さんは北韓がでっちあげた発表をまったく信じていない。痛みあがりの兄が軍の兵士と抗戦するなどありえないからだ。秀子さんの日本人の親族から投げつけられた「朝鮮人の残虐性がこんな目にあわせた」との言葉に肩を震わせながら北韓の蛮行を糾弾する日々が続く。

 「帰国者の家族がなぜ立ち上がらないのか。民団の同胞の中にも帰国者がいる。民団も総連もみんなが一つに力を合わせれば、金正日も手を出せない。帰国者につながっている在日が主体になって命を守らなくてどうするのか」と声を荒げる。

(2000.02.09 民団新聞)



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