民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
民族学級の昨日、今日

<5>学校に根付く意義



昨秋から始まった大阪市立
三国小学校の民族学級開講式

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仲間との連帯、出自肯定できる場
同胞子弟の"サロン"にも

 「ウリマル(母国語)で、木の枝に果実がぶらさがる様を"チュロン、ヂュロン"と言うんやで」

 「"チュロン、ヂュロン"か。ソンセンニム、ウリマルってほんまにええなあ」

 東大阪市内の民族学級で交わされた民族講師と子どもの会話である。ウリマルを学ぶなかで、子どもたちは民族につながる自分自身をありのまま受け止める。

 「今日の同胞のつどい、どうやった?」。

 「めちゃ、めちゃ(とても)おもしろい。なんで毎週でけへんの。毎週やりたい」

 同胞が少ない枚方市内の中学校で学期に一度取り組まれている「同胞のつどい」で、中学生が私になげかけた思いである。このつどいが始まった時に子どもたちどうしが交わした「お前も、おれと一緒か」。この"言葉"の重みは、私たちが民族学級に関わり続ける原動力であり、いまの学校教育に投げかけた本質的な"問い"であろう。

 民族学級(名称は多様)は、公立学校に在籍する韓国・朝鮮にルーツを持つ子どもたちを対象に取り組まれる課外学級であり、大阪市をはじめ府内一円で取り組まれている。制度的にはまだ不安定な状況にあるが、保護者や思いある教員たちによって民族学級は設置され、民族講師たちがその現場で日々汗を流し、子どもたちと生活を共にしている。

 だが週に1回1時間程度の取り組みである民族学級の現状では、民族教育がどこまで取り組めているのか、常に自問自答している。民族学級は課外活動であるため、5時間や6時間の授業を終えた子どもたちが集まってくる。


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日本人には"違い"認め合う感性を

 長時間の授業を終えた子どもたちをまた、いすに座らせ、黒板に向かわせることは至難のわざである。むしろ無理と言っても過言ではない。公立学校における民族教育の位置はそんなところでも象徴的である。

 疲れた体で民族学級に集まってきてくれる子どもたちに、いかに楽しく民族に関わる取り組みができるのか、民族講師たちは、日々そんな課題と格闘し続けている。

 開きなおることが許されるならば、現状のような位置付けでは、本当の民族教育はできない。せめて、いまの民族学級が果せる役割は、普段意識的に出会うことの少ない同胞の仲間たちとつながり、出自に関わる話を分かち合い、日本社会の歪んだ韓国・朝鮮観によって形成され、子どもたちの心に巣くう民族的劣等感を克服することである。

 ときには、民族学級が同胞の子どもたちの"サロン"にもなれば、立ちはだかる差別に怒り、告発する"発信基地"にもなる。私たちが、すべての同胞の通う学校に民族学級が設置され、民族講師が措置されるべきだと考えるのは、そのことがいかにいまの学校教育にとって大きな意味を持っているのかを実感するからである。

 「私は、在日している外国の方々が、自分の国について胸を張って語ることができる日本になって、やっと国際的な国になったということができると思う。国際的な社会とは、自分の国と相手の国、両方を受け止め、「すごいな」「かっこいいな」とか、自然に言える社会だと思う。中学に入ってから、朝鮮の文化がどんなものか、また少し知ることができたと思います。私たち日本人にとっては隣国の文化を、在日韓国・朝鮮人の方々にとっては、母国の文化を知ることができる、すばらしい活動だと、つくづく思いました」

 この作文は、民族学級の仲間たちによる発表会を見て綴った日本人生徒の作文である。

 彼女の待つ感性が、韓国・朝鮮人の仲間たちの存在を、ありのまま受け止めようとしていることがわかる。

 日本人の仲間たちにありのままを見てほしいと舞台に立つ同胞の子どもたち。その姿を自らの生きかたに返しながら、目いっぱい心を開こうとする日本人の子どもたち。教育のだいご味を味わう瞬間である。

 子どもたちは、大人が感じる以上に研ぎ澄まされた感性を持っている。学校は、その感性を受け止め、すべての子どもたちが自らの存在を尊び、生きる"力"を培う場でありたい。

 公立学校に民族学級を位置付かせることは、今を生きる私たちの責任であり、差別をなくし、すべてが人らしく生きられる社会をめざす決意でもある。

 すべての学校で取り組まれるよう、民族学級のエネルギーを全国に発信したい。

(民族教育促進協議会事務局次長)

(2000.02.16 民団新聞)



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