民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<19>

北送事業-16-
乗船拒否された李洋秀さんに聞く



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「来たれ北へ」の宣伝信じ」
10歳で北韓行き決意

 今から40年近く前の1961年6月30日、第65次「帰国船」に乗る寸前までいきながら、乗船を拒否された同胞がいる。愛知県豊橋市出身の在日二世で、現在は韓国・朝鮮語の通訳、翻訳業を営む李洋秀さん(49)だ。

 洋秀さんは当時、朝鮮初級学校の5年生、わずか10歳だった。両親が離婚したため、韓国籍の日本人の母と2人で北韓に行くことになった。母は息子の将来を案じ、社会主義の朝鮮でいい大学に入り、いい就職を願ってのことだったろうと、洋秀さんは回想しながらも、「北朝鮮行きを決めたのは、ぼくの方ですよ」と言う。

 それは前年の1960年に起きた「4・19学生革命」の影響によるものだ。連日のように新聞やラジオで放送される革命前夜のような韓国の状況。「行こう南へ、来たれ北へ」の祖国統一を掲げたスローガンは、少年の心を熱くするのに充分だった。


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民族意識のめばえ

 5歳で日本に渡って来た父は、ウリマルができなかった。洋秀さん自身も3年生まで日本の学校に通い、日本名が「李家(りのいえ)」だったり、祖母をハンメと呼ぶことに違和感があったが、日本人だと思いこんでいた。学校で誰かが言葉をどもったりすると、「朝鮮語しゃべるな」と一緒になってはやしたてていた。

 そんな洋秀さんを、母がいさめたことから、「朝鮮人なんだったら朝鮮学校に行きたい」と自ら転校を申し出た。小学5年生になった4月のことだ。「豊橋に民団系の学校があったらそっちに行っていますよ」。祖父はかつて地元で民団の役職にあった。

 転校してから3カ月間、毎日朝の1時間は言葉の勉強に当てられたが、残りの時間は在校生と同じ授業に組み込まれるハードなもの。その甲斐あって、「帰国」前の歓送会のあいさつは朝鮮語で無難にこなした。同じ学校から北に行くのは、もう一家族だけだったが、それはすでに多くの同胞が帰った後だったからだ。洋秀さんの推測だと、150人規模の学校から半分は「帰国」しているという。後日談だが、洋秀さんは名古屋で中・高級学校に在学したが、1500人中300〜400人は北に帰った。


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「帰国拒否」の理由

 「北朝鮮をずっとすばらしい国と信じていた」洋秀さん母子が、なぜ「今回は待て」と、北の指示を受けた総連新潟県本部の担当者から拒まれたのか。愛知県の担当者からは、大丈夫だとお墨つきを得ていたのにもかかわらず、それから何年も待たされた。

 表向きの理由は、両親がそろってないからというものだった。正式に離婚もしていないのに、父親が行かないのは、不自然だというのだ。押し問答の末、ある日突然、父が新潟に呼び出された。身辺整理を理由に父は「先に2人を送る。受け入れを」と頼んだが、無駄だった。

 外国人登録を抹消され、日本に入国した覚えもないのに「再出国」のスタンプを押されたことを、今でも洋秀さんは記憶している。

(2000.02.16 民団新聞)



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