民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<23>

ジャーナリスト萩原氏に聞く=上=



尹君の「帰国」後押し
社会主義朝鮮に幻想

 ジャーナリストで作家の萩原遼さん(63)が、朝鮮問題に関わるようになったきっかけは、わずか十四歳で済州道から密航してきた尹元一君との出会いである。密航少年という存在に大冒険小説の主人公のようなロマンを感じた。その尹君が一九六〇年、北送船に乗り、希望に燃えて北韓に帰って行った。

 その後、日本共産党の機関紙「赤旗」の記者として一九七二年から七三年まで平壌特派員を務めた時、かつての同級生を探しだそうと動いたことが、北当局から監視の対象になり、スパイ容疑で国外追放処分を受ける羽目になった。尹君をはじめ、行方の知れない「帰国者」の原状復帰をめざし、現在、北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会の共同代表でもある萩原さんの話を二回掲載する。


◇◆◇◆◇◆


 萩原さんは生活苦から地元高知の高校を中退し、出稼ぎで大阪にやって来た。パチンコ店の玉磨きや菓子製造見習いなど一年間働きつめて、ようやく一九五五年四月、天王寺高校定時制の三年生に編入した。机が隣合わせになったのが尹君で、初めて接する朝鮮人だった。

 尹君は頬骨の高い風貌に朝鮮人独特の開けっぴろげで大らかな雰囲気があった。社会の最下層にあった弱者同士、すぐに親しくなり、泊まりに行ったり泊まりに来たりの家族ぐるみのつきあいになった。お互いに詩が好きだということも、二人を親しくさせた。

 尹君の口ずさむ朝鮮語訳されたハイネの「ドイツ冬物語」の一節、「夜、祖国を想うと私は眠れない」に共感した。

 朝鮮戦争さなかの密航という事実によって、血みどろの現代史の入り口に立った気がした。朝鮮への興味がふくらんでいった。


浮上した「帰国」運動

 高校卒業後、前途に希望が見出せない尹君は酒で気を紛らしていた。いつ本国に強制送還されるかもわからない密航者の弱い立場が、尹君に不安感をつのらせていた。そこへ「帰国運動」が持ち上がった。

 「帰国運動」が始まる一九五九年の初め、尹君は「北朝鮮に帰る」と言い出した。一緒に生野区にある朝鮮総連(総連)分会に説明を聞きに行った。社会主義祖国の建設に尽くすという尹君の言葉に、五八年にすでに共産党に入党していた萩原さんも意気に感じ、「帰国」を後押しした。尹君は一九六〇年四月、一人で「帰国船」に乗った。「平壌で再会する時は、朝鮮語で話をしよう」と約束した。

 一方、萩原さんは天理大学の朝鮮学科を受験したが失敗。共産党から朝鮮青年同盟(朝青)を紹介され、「帰国」を控えた同胞らの熱気の中で朝鮮語の勉強を始めた。

 その後、六三年に大阪外国語大学に新設された朝鮮語科に合格した。在学中に翻訳した韓国の詩人、鄭孔采について卒業後に共産党の文化雑誌に「長詩『米第八軍と車』と鄭孔采」を載せたことが、「赤旗」幹部の目に留まり、六九年一月に「赤旗」編集局へ。朝鮮問題の担当になった。

 「社会主義朝鮮はすばらしい。人間は平等で搾取のない社会。たとえ貧しくても和気あいあいの国」と、信じて疑わなかった。だが、その幻想は平壌特派員生活で潰えることになる。

(2000.04.26 民団新聞)



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