民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<24>

ジャーナリスト・萩原遼さんに聞く(下)



「帰国」求める当時の署名運動

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闇に消えた「帰国者」
人権回復あきらめない

 1972年5月、萩原さんは「赤旗」特派員として平壌入りした。

 到着後、5日目の日曜日のことだ。弟2人が北韓に「帰国」している金民柱さん(現在、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会共同代表)に頼まれ、行方不明の弟の消息を探ろうとした。

 ところが、訪ねあてたアパートには弟の姿はなく、顔は蒼ざめ、髪を振り乱した女が1人いただけだった。「千里馬運動」の社会主義朝鮮に、今にも死にそうな異様な風体の女がいること自体が驚きだった。

 当局の許可なく1人で「帰国者」を訪ねたことが、後に大問題になるが、この時点では、「帰国者」も自分自身も監視の対象になるとは夢にも思わなかった。


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階級社会、虚偽の国

 萩原さんにとって朝鮮は、平等な社会主義国という思い込みがあった。しかし、現実は労働者を差別する階級社会であり、虚偽の国だった。

 萩原さんにつけられた運転手のよれよれのみすぼらしい服装に比べ、日本共産党の幹部に取り入った案内人(監視員)は、外国人商店で仕入れたぱりっとした洋服を身に付け、支払いはその幹部のツケにしていた。運転手はいつもおどおどし、案内人は明らかに運転手を見下していた。彼らは食事の席でも決して同席することはなかった。

 北の人民と同じ生活を送り、労働者と連帯しょうと考えていた萩原さんは、日本から物資を持ち込まなかった。ある日、洗濯をしようと粉石〓を買いに外国人商店に出かけると、「今はないが、来週にはある」と言われる。翌週行くと、また来週との返事。それが繰り返される。

 「なくてもあると言う。大〓つきの国に来たのではないか」。疑念はどんどん広がっていった。


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「帰国者」の消息求め

 同級生の尹君にどうしても会いたい萩原さんは、案内人に消息調査を依頼した。返ってきた言葉はいつも「アプル ポップシダ(先を見ましょう)」。先延ばしされるばかりだ。らちがあかず、自分で捜し始めた。

 尹君の手がかりとなる人物に接触し、後日、その人間から目と鼻の先に尹君が来ていると、電話でおびき寄せられそうになったこともある。

 しかし、会いには行けなかった。当局の監視は萩原さんの不在中に部屋を物色するなど、生命を脅かすまでにエスカレートしていたからだ。

 たとえ北が貧しくても、「帰国者」が自由に行き来ができ、家族が和気あいあいと暮らしていれば、せめてもの救いがある。だが、現実は監視と統制が支配しているだけだった。

 その後、萩原さんは「日本から送り込まれた密偵」と断じられ、1年後にスパイ罪で追放されることになる。その間の経緯は文藝春秋社発行の『北朝鮮に消えた友と私の物語』に詳しい。同著は99年4月、第30回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、現在七刷り三万部を数えている。

 「闇に閉ざされた真実を白日のもとに引き出すこと。それが作家の使命だ」。韓国の詩人、金芝河の言葉である。萩原さんはかつてペンネームを使い、死刑判決を受けた詩人の国際救援運動に奔走した。

 闇に消えた「帰国者」を忘れず、彼らの人権回復のために声をあげること、「それがジャーナリストの使命だ」と、今日の萩原遼の「育ての親、朝鮮」に一生関わる決意は変わらない。

(2000.05.10 民団新聞)



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