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20世紀の韓日関係を振り返る

−姜在彦・花園大学元教授−



 20世紀も余すところ4カ月余。今世紀の韓日関係は、韓国併合に始まる日本帝国主義の植民地支配、祖国の解放、在日社会においては韓日条約など韓日、そして在日社会は激動してきた世紀といもいえる。今世紀の末にあたって韓日近代史に造詣が深い姜在彦・花園大学元教授にあらましをまとめてもらった。


苦難の歴史乗り越え、信頼と協力の21世紀に

■1■
明治維新、交隣から征韓へ

 1910年8月22日、韓国は日本に「併合」された。韓日両国の長い交流史のなかで、それを暗転させた歴史的瞬間である。

 しかしその前兆は、1867年の徳川将軍から明治天皇への大政奉還―明治維新そのもののなかに芽生えていた。1868年(明治元年)12月に、明治新政府のなかで長州閥を代表する木戸孝允は岩倉具視に、二つの方針を提言している(『木戸孝允日記』第一)。その一つが、次のような征韓論である。


◆「罪を鳴らして攻撃」…明治新政府に前兆

 「一つは速やかに転嫁の方向を定め、使節を朝鮮に使わし、彼らの無礼を問い、彼もし不服のときは罪を鳴らして攻撃、その地に大いに神州の威を伸張せんことを願う」。

 1876年2月の江華島条約締結に至るまで、徳川幕府に代わる明治政府と朝鮮との国交回復交渉は、日本側のこうした姿勢によってトラブルを巻き起こした。近代における韓日関係の不幸の始まりである。

 1603年に成立した徳川幕府は、豊臣秀吉の侵略によってぶちこわされた両国関係の正常化のために努力し、260余年間にわたる交隣関係の基礎を切り拓いた。

 明治維新後の両国関係は、「交隣」から「征韓」に暗転した。


■2■
征韓完結−韓国併合

 日本は明治維新後の征韓論を実現する過程で、1894〜1895年の日清戦争、1904〜1905年の日露戦争を戦い、それにつづく反日義兵運動をはじめとする韓国民衆の抵抗を弾圧するための武力戦をつづけた。

 日本が最終的に韓国(1897年から大韓帝国)を「併合」する方針を決定したのは、1909年4月の首相・桂太郎、外相・小村寿太郎、韓国統監・伊藤博文の三巨頭会談であった。


◆武力で民衆弾圧…韓国蔑視、日本に浸透

 「併合」とはいうまでもなく韓国の主権を奪い、植民地化することである。

 ところがそれを表現する用語については、一定しなかったようである。当時外務省政務局長であった倉知鉄吉は、次のようにのべている。

 「従テ文字モ亦合邦或ハ合併等ノ字ヲ用イタリシガ、自分ハ韓国ガ全然廃滅ニ帰シテ帝国ノ領土ノ一部トナルノ意ヲ明カニスルト同時ニ、其語調ノ余リ過激ナラザル文字ヲ選バント欲シ……併合ナル文字ヲ前記文章ニ用イタリ」。

 1910年(明治43年)8月22日から、日本が敗戦する1945年8月15日まで、朝鮮総督を頂点とする専制政治が行われた。

 朝鮮総督は初代の寺内正毅から最後の阿部信行まで、一人の海軍大将(斎藤実=さいとうまこと)を除いて、すべて陸軍大将であった。

 植民地朝鮮では、日本の憲法さえ施行されず、「総督ニハ(天皇)大権ノ委任ニ依リ法律事項ニ関スル命令ヲ発スルノ権限」にみるように、総督の命令が「法」であった(これを制令といった)。

 この35年間の植民地支配の時期、日本と韓国との関係は、有史以来はじめて支配と被支配の関係となり、韓国およびその人たちを上から見おろす蔑視感が、日本の庶民の中にまで浸透した。

 政治的には1945年8月15日に日本の支配から解放されたが、意識の面ではその蔑視と偏見が両国間の関係正常化を妨げるいろいろなしこりを残した。


■3■
8・15光復節−解放と分断

 日本の植民地支配からの解放の日「8・15」は、北緯38度線による民族分断と直結した。本来38度線は、45年8月14日のトルーマン大統領「一般命令第1号」によって、その以北の日本軍はソ連極東軍最高司令官に、その以南の日本軍はアメリカ陸軍最高司令官に降伏するよう決定したことから生じた。

 米ソ軍によって武装解除された日本軍が引き揚げてのち、韓半島をまん中から二分する38度線は残った。


◆喜びもつかの間…38線固定と6・25動乱

 第二次大戦中の米ソ協調路線が、大戦後の対決に転じ、両国を軸とした冷戦構造の中で韓半島の分断は固定化した。

 1943年11月のカイロ宣言、45年5月のポツダム宣言によって、日本植民地支配からの解放と独立が約束されたはずの韓半島は、50年6月25日から3年1カ月にわたる韓国戦争によって国土は破壊され、数百万人にのぼる死傷者を出し、その後遺症として1000万人にのぼるといわれる離散家族の問題がある。

 戦争特需を謳歌していた日本政府はこの時期、むしろ在日同胞を韓国に強制送還するために、長崎県に大村収容所をつくっている。

 戦争中に日本の戦時産業に吸収されていた多くの同胞は終戦後に職場から追い出され、生活の目途が立たず、途方に暮れていた。

 それに追い打ちをかけたのが、台湾や朝鮮の旧植民地人を差別し虐待したことに対する反省はおろか、「第三国人」呼ばわりして、彼らがあたかも犯罪者集団であるかのような偏見をばらまいたことである。

 外国人登録証に指紋押捺を強制したのは、そのためであった。

 いま振り返ってみると、われわれは日本政府に植民地支配と戦時中の強制労働の責任を厳しく問う準備が、理論的にも実証的にも、全くなされていなかった。


■4■
韓日条約−成立35年を経て

 両国の国交正常化のための韓日会談は、韓国戦争中の1952年2月からはじまった。その間、度重なる中断と継続を繰り返して、65年6月に韓日条約がようやく成立した。

 しかしこの条約は、韓国に対する日本の植民地支配の責任について十分論議が尽くされ、完全な合意をみたうえで成立したものではなかった。

 例えば基本条約第2条には、韓国植民地化のための旧条約が、あいまいに「もはや無効である」と表記されている。旧条約が締結された時点から無効であれば、植民地支配は非合法になる。これは韓国政府の立場であった。


◆不完全合意で成立…国交正常化で経済再建

 ところが日本政府は、大韓民国が成立した時点(1948年8月)から無効であり、それ以前の植民地支配は合法的であったという立場であった。こういうたぐいのあいまいさ故に、依然として積み残した問題も少なくない。

 にもかかわらず韓日間の国交正常化は、北東アジアにおける両国間の関係改善に大きく寄与したばかりでなく、韓国における経済再建のバネにもなった。

 両国関係は、両国政府による政治的および経済的関係が先行したが、とりわけ民衆間交流が年々増大して、両国民間のわだかまりがしだいに解消したことに注目したい。その画期となったのが1988年のソウル・オリンピックであった。

 例えば10年ほど前までは想像もできないことであったが、韓国民団が押し進めてきた在日韓国・朝鮮人の地方参政権に、多くの地方自治体が賛成決議し、国会で審議される段階にまできている。


■5■
21世紀の新たな関係めざして

 先にソウル・オリンピックについて触れたが、確かにスポーツは国境を越える。ソウル・オリンピックに至るまでの1年間に、日本のマス・メディアを通じて流された、韓国に関する情報量は莫大であった。各家庭の茶の間で、韓国を身近に感じるようになった。

 日本総理府が出した1999年版『観光白書』によると、98年度日本人観光客の訪問国別人数は、やはり第1位がアメリカの495万人(前年比7・9%減)で、第2位の韓国が190万人(前年比18・5%増)、第3位の中国が100万人(前年比3・7%減)となっていた。

 長く続いた不況の中で、外国への観光客が軒並み減っているにもかかわらず、韓国だけがダントツに前年比18%も増加しているのに驚いた。


◆イメージ変えたソウル五輪…2002W杯でさらに飛躍へ

 サッカーの2002年W杯には、韓日間に多くの若いサッカーファンが国境を越えて流動することが予想される。韓国政府の大衆文化開放と相まって、特に若い世代間の交流が飛躍的に前進するのではないだろうか。

 顧みると20世紀は、35年間の植民地支配とその後遺症をめぐって、韓日間にぎくしゃくしたトラブルが多かった。サッカーW杯の韓日共催は、21世紀に向けた両国の民衆間交流のもう一つの新しい地平を切り開くに違いない。

 今は少数ではあるが、本名で地方公務員にもなり、弁護士にもなり、大学教員にもなれる時代となった。それに至るまでは、国籍の南北を問わず、すべての「うるさい鮮人」を敵視し差別した、日本当局との血のにじむような先覚者たちの闘いがあってこそ今日があることを肝に銘じなければならないと思う。

(2000.08.15 民団新聞)



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