民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
母国の地で一気に開花!

在日同胞初のサッカー五輪代表候補
朴康造選手(20)にインタビュー



五輪代表候補として母国の地で
大活躍の朴康造(京畿道龍仁市の
城南一和専用練習グラウンドで)

■□■□■□■□■□■□■□■□
「小さな巨人」誇り持って次の夢へ

 在日同胞初のKリーガー(韓国プロサッカー選手)で、一カ月後に迫ったシドニー五輪の韓国代表候補にも選ばれた朴康造選手(20・城南一和=MF)。165pという小柄な体格に負けないテクニックと闘志あふれるプレーが母国の地で開花した。今や、"小さな巨人"としてチームの顔になった朴選手に抱負と在日へのメッセージを聞いた。(写真と本文、鄭真一)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


■□
サッカーとの出会い

 サッカーを本格的に始めたのは小学校3年の頃。しかし、サッカー選手だった兄の影響でそのずっと前からボールを追いかけ回していた。兄と同じ民族学校(兵庫・尼崎朝鮮初・中級学校)に通ったことから、クラブ活動はもちろん休み時間、体育の時間、放課後など時間があればすべてサッカー漬けの毎日だった。児童・生徒全員がサッカー部員のような環境だった。

 一六五センチの朴康造は子どものころも小柄だった。しかし人一倍の努力でその才能が早くも開花し、4年生から上級生らに混じってレギュラーとなった。

 朝鮮学校の全国対抗大会でも活躍。6年生の頃、全国選抜チーム代表に選ばれ、平壌に遠征した。浦項スティラーズの在日同胞選手、任泰亨とはその代表時代のチームメイトだ。


■□
プロへの夢

 中学生になった頃、日本のサッカー界に大きな動きがあった。Jリーグの誕生だ。

 「将来はプロになりたい…」。めざす夢はまた一歩広がり、先輩たちが多く進んだ名門の滝川第二高校に進学した。康造の素質はすぐに監督の目にとまり、1年からレギュラーに抜擢された。

 高3の冬、全国選手権大会県予選決勝で強豪の琴が丘高校に0―2で負けていたが、連続3ゴールを決め逆転勝ちし、全国選手権出場を決めた。だから今でも最後まであきらめぬ気持ちを大切にしている。

 スカウトを受け、京都パープルサンガに入った。念願のJリーガーになった。そして、あこがれていたカズとプレーできると確信した。

 しかし、2年間の在籍中、一軍の試合出場はわずか一試合。あまりにも不本意な状態が続いた。寂しかったが、それでも好きなサッカーを毎日できる。それだけでも充実していた。

 そんな時、康造は運命を変える一人の人間と出会った。在日同胞のスポーツライター崔仁和氏だ。

 「韓国でサッカーをやってみないか」。崔氏が代理人のような形で一和とのパイプをつなげてくれた。

 サテライトどうしで韓国のプロチームと交流戦を経験していた康造自身も、韓国での心機一転を決断し、城南一和の門をたたいた。

 前々から行ってみたかった韓国初訪問がサッカー挑戦だった。

 入団テストではがむしゃらにプレーし自分の存在をアピールした。そして入団が決まった。


■□
自信を与えてくれた韓国

 Kリーグデビュー戦は3月12日の大韓火災杯だ。日本でのうっぷんを晴らすかのように“水を得た魚”の康造は母国の地で、のびのびと、そして力一杯プレーした。

 韓国代表の許丁茂監督はこんな康造の活躍を見過ごさなかった。5月12日に韓国五輪代表候補に選ばれた。

 5月28日のユーゴとの親善マッチで代表初出場。6月のLGカップ、エジプト戦ではフリーキックから記念すべき代表初ゴールを決めた。

 「代表になって、自分は韓国人なんだと再確認するようになった。韓国は僕に自信をくれたところ」。


■□
在日の誇り持ち夢を追い続ける

 「在日と言うことで夢をあきらめている子も多くいると思うが、日本でも韓国でも可能性を求めて頑張り続ければ必ずチャンスがやってくるはず。在日の代表として誇りを持って走り続けたい。僕が頑張れば、在日もできるんだという可能性を広くアピールできる。そして、多くの在日が僕に続いてほしい。シドニー五輪代表に選ばれたらもちろん死にものぐるいで頑張る。必ず得点したい。そして、次の目標(2002年W杯)に向かって夢を追い続けたい」。

 "小さな巨人"、朴康造のキックオフはまだまだ始まったばかりだ。

(2000.08.15 民団新聞)



この号のインデックスページへBackNumberインデックスページへ


民団に対するお問い合わせはこちらへ