民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
21世紀の民族教育を見つめて

民族学校の現場から<3>



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児童の夢、育てていこう>

安善喜(東京韓国学校・初等部教師)

 東京韓国学校に派遣教師として勤めてから、6カ月になった。

 最初に6年の子どもたちを担任することになった。小学校の卒業班、雄飛の意志を強く持ってもらおうと、期待をふくらませて迎えた6年生のクラスだったが、はじめは失望を感じた。授業時間に、これといった反応がないのだ。

 まちがってもいいから返事もし、たしかめてもみて、自分が意見を言うと、だれかが反対意見を出したりと、そんな活発な授業の雰囲気に慣れていた私には、何かすっきりしないところがあった。

 どうして手を上げないのか、と子供たちにたずねてみた。まちがっていたら恥ずかしいから、自信がないからだという。

 6年生ならば、積極的に自分の意見を発表し、先生に異議も出しながら、旺盛な好奇心と探求心を満たしていかなければならない時期ではないか、と私は思う。ところが、クラスの子供たちは静かだった。日本で長く暮らしてきた、いわゆる定住者の子供たちが、特にそうだった。

 日本の教育風土の影響だろうか。日本の教育は、はねあがる(めだつ)子供を押さえて平均化する教育だ、としばしば言われる。それが、今日、秩序先進国の代表とされる日本の姿かもしれない。

 でも、私のクラスには個性の強い子が多い。クラスは、構成の多彩さでかがやいている。

 私は、消極的でつつましい在日同胞の子供たちに、学級選挙に出たり、雄弁大会に出たり、お絵かき大会に出たりして、なんにでも出ていって、やってみるようにすすめている。

 ぎこちなく、失敗も多いかもしれないが、自分自身の声を持つために、勇気を出すようにと言っている。

 子供たちは、自分にも分からないセン在意識を持っている。私は、ひとつのクラスを担任すると、学年が終わるまで子供たちを観察する。そして、彼(彼女)らが自分で気づかないでいる才能を発見して、それを呼び覚ましてやろうと苦心する。それが、1年間引き受けた子供たちにしてやれる担任の役割だと信じている。

 学窓時代の最高の目標は、成績ではない。その子だけが持っている能力を見いだし、みずからの夢を模索して、その夢を育てていくことが、もっと大切なことではないだろうか。

 今は、私たちのクラスにも、ピョンピョンはねる子供が多くなった。

 お婆さん(ハルモニ)の声をびっくりするくらい上手に真似して、みんなを笑わせるD君。口数が少なくて恥ずかしがり屋だけれど、絵を描くときには誰よりも描写力が飛び抜けたJ。バタバタとあわて者だが、文章力が一番のJ・Y。

 宿題もやってこず、毎日朝寝坊で遅刻をよくするけれど、何かを作らせれば繊細な手並みでわたしをハッとさせるK。彼(彼女)らがいるから、私は毎日新しい力を得る。

 彼(彼女)らが、もっととび跳ねるように、みんながそれぞれの姿をさがし出して、おのおのの色合いでとび回るようにしてやりたい。

(2000.11.29 民団新聞)



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