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「在日の夢」担うイレブンたち

21世紀にキックオフ…在日大韓蹴球団



山本裕司監督

「粘り強いサッカーめざす」山本裕司監督に聞く

韓国と日本の友情大切にしたい

■韓国、在日との出会い

◇日本人でありながらも、在日のサッカー人らと共同作業を進めてきた山本監督ですが、韓国との関わり、また、在日との関わりは何がきっかけだったのですか。

◆山本 私は兵庫県尼崎市の出身。そこは在日の人たちが多く住んでいます。幼少の頃から身の回りに在日の友人や知人が多く、いろいろな面でお付き合いをさせていただきました。

 余談ですが、中学時代、初恋の相手も実は在日韓国人でした。

 また、大阪北陽高校サッカー部時代、全国高校サッカー選手権で優勝したときも、レギュラーの半数近くが在日の人たちでした。

 大学(日本大学)に進んでも、朝鮮大学との定期戦をはじめ、韓国遠征など、つねに在日と韓国に関わってきました。社会人となった日産時代、日本リーグの中にも在日の選手が絶えずいました。

 今回、監督を受けることを決心したのは、元横浜マリノスの木村和司さんを通じて知り合った、在日本大韓蹴球協会の宋一烈会長との出会いがきっかけでした。

 私は30歳で引退し、その後しばらくサッカーとは疎遠になっていました。在日のサッカーチーム育成をはじめとする、宋会長の熱心なサッカー愛に説かれ、私の眠っていたサッカー熱をふたたび呼び覚ましてくれたのです。


■チーム戦力

◇いよいよ、在日大韓蹴球団が結成されました。これまでの合宿や4回にわたるセレクションなどを通じて、多くの在日同胞選手を見てきたと思いますが、今できあがったチームの感触は。

◆山本 率直に言って、必ずしも満足できるチームになったとは言えません。選手たちそれぞれが全国に分散していることもあり、まだ、緻密な連携がとれていません。

 しかし、昨年3月からのセレクションを通じて、埋もれた逸材、すばらしい身体能力を持った選手と出会うことが出来ました。

 その中で、チームの核となるべく期待していた選手が、Kリーグのスカウトの目に止まり、プロの道へと進みました。

 チーム戦力を考えると複雑な気持ちですが、選手たちの今後のサッカー人生を考えた場合、在日大韓蹴球団を通じて、プロの道が開けたことは喜ばしい事であり名誉と言えるでしょう。


■監督の決意

◇在日大韓蹴球団は在日同胞の夢と期待が込められたチームだと思います。それだけに、監督にとってもプレッシャーがある半面、やりがいもあるのではないでしょうか。公式デビューとなる今年3月の大統領杯ではどのような戦いをめざしますか。

◆山本 予選ラウンドは四チーム1ブロックによるリーグ戦と聞いています。したがってまずは三試合を戦う訳です。

 当然のことですが、勝てる試合は確実に勝ち、負け試合をドローに持っていく、粘り強いサッカーをめざします。

 そのためには、選手全員が守備の意識を高め、しっかりした全員守備からチャンスを作り、確実にモノにするといった戦術を考えています。

 対戦相手がどのような展開になるか予想もつきませんが、個々の選手がモチベーションを高められるかがカギとなるでしょう。


■チームの今後

◇産声をあげたばかりのチームでもあり、プロとは違い、戦力面でもまだまだ劣る点が多くあると思います。今後のチーム育成をどのように考えていますか。

◆山本 勝利至上主義にこだわって勝つことだけを選手に要求したくありません。

 サッカーを通じて知り合ったチームメイト、そして仲間意識を大切にし、組織の中で自分は何をすべきかを常に考え、正しく判断するプレーヤーに育てていきたい。自主性を大切にし、目先の結果よりも、在日選手としての存在をアピールし、未来につながるような成果を残したい。


■プロフィール■

 1956年7月30日、兵庫県尼崎市生まれの44歳。小学6年からサッカーを始め、大阪北陽高校時代は、73年に全国高校サッカー選手権で優勝。日大サッカー部を経て79年、日産自動車サッカー部(現、横浜F・マリノス)に入団。堅守のDFとして活躍し、日本リーグでは木村和司、金田喜稔らとともに、第63回、第65回天皇杯を制覇。85年3月に引退。日本リーグでは五十試合出場、2得点、3アシスト。

(2001.0101 民団新聞 新年特集号)



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