◆2002W杯共催成功に使命感
国際サッカー連盟(FIFA)の関係者が日本での準備状況を視察に訪れる機会が増えている。1日で神戸から大阪、静岡と各競技場を駆け足で回ることも珍しくない。その間、英語の通訳として随行する李賢淑さん(31)は、視察がスムーズに進むようサポートすべき相手の口となり手となる。
李さんは日本組織委員会(JAWOC)から派遣される臨時スタッフだ。FIFA関係者が来日した際には、JAWOC国際部の委託を受けた社員を通じて、通訳の依頼を受けることが多い。昨年5月から関わりはじめた。JAWOCばかりか欧米のメディアからの依頼もあり、ほぼ月1回のペースで2002年FIFAワールドカップ(W杯)に関わり続けている。
もともとサッカーは好きだった。それ以上に韓日が共催するW杯には何らかの形で関わりたいと思っていただけに、初めて仕事の依頼を受けたときは「わくわくした」。
「『在日』は日本と韓国の両方の文化を分かっている。私たちの役割が大きいのでは。おおげさにいえば使命感のようなものを感じた」という。
99年10月にはFIFAと韓日両国の組織委員会関係者がメディア向けサービスについて話し合うソウルでの三者会談、同年12月にも東京での大陸別予選抽選会に同席した。
インターナショナルな雰囲気が心地よかったという。「私が求めていた場所はこういうところ」。
もともとジャーナリズムの世界で活躍するのが夢だった。英国留学から戻ってから真っ先に外国人記者クラブに売り込みの手紙を書いたほど。物おじしない性格と旺盛な知的好奇心、何よりも人と接するのが好きだった。その点、W杯関係の仕事はまさに打ってつけだったようだ。
朝鮮学校に通っていた小学生のときから自らのアイデンティティーの有り様に悩んだ。特に差別体験があったわけではないが、「日本で生まれたのになぜ日本人ではないのか」との疑問を持ち続けてきた。小学校も高学年になると、無性に日本から飛び出したいとの気持ちがふくらんでいった。英語の力をつけるためにとラジオから放送される「100万人の英語」に耳を傾け、英会話スクールに通っては無料体験レッスンを受けたりもした。
両親にも留学志望がなまはんかな気持ちから出たものではないないと知らしめる必要性があった。このため人一倍勉学に励み、朝鮮高校2年生のときには朝鮮学校生徒を対象とした全国的な「統一試験」で総合第四位の成績を収めた。ごほうびとして成績上位5人が北韓に招待された。
両親も李さんの決意が固いと知り、英国留学を許可してくれた。2年間の語学研修を経てキール大学で学ぶ。留学生活は計5年間に及んだ。さらに外交官を多数輩出していることで知られる大学院まで進もうともしたが、両親の経済的負担も考え断念した。
92年に帰日してから持ち前の語学力を生かして音楽業界で働いた。しかし、「ただの言葉屋さんにすぎないのでは」と悶々としていたときJAWOC国際部の関係者と出会った。通訳としてFIFA関係者と接触するうち、李さんは世界的イベントとしてのW杯の奥深さのようなものを思い知らされた。
「通訳がプライドを持ってできる仕事」との確信を持つようになったのはW杯に関わったからこそともいえた。
将来もグローバルな世界で活躍するのが夢。もう一度海外に留学したいとの気持ちも捨て切れていない。しかし、JAWOC関係者からは2002年まではスケジュールを空けておくようにいわれている。W杯が終わるまでは日本を離れられそうもなさそうだ。
(2001.01.01 民団新聞 新年特集号)
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