民団新聞 MINDAN
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在日へのメッセージ

「七草粥と雑煮の故郷」
前田憲二(映画監督)



 在日の人々は「七草粥」や「雑煮」というと、日本を直感的に連想する。ところが、そのふるさとは朝鮮半島だった。

 韓国では今日でも白米をくだいて作る白粥の調理法があり、それは特に全羅道に多い。これは稲作をはじめた時期からの調理法だった。粥を食した痕跡は、南韓の羅ナ津ジン草チョド島、茂ムサン山虎ホゴク谷遺跡から、青銅器時代の骨製さじが出土。また大テドン同江ガンべり遺跡からは陶匙が出土。これらは総て、粥用のスプーンだった。

 100年から200年後の弥生中期には、静岡の登呂遺跡から同型の木匙が出土。これも粥用匙と考えられている。

 つまり、朝鮮半島で粥を食す習慣が、少し遅れて列島へ伝播したのだろう。

 三国時代の高句麗では、雑穀である稗(ひえ)、粟(あわ)、黍(きび)などを耕作した。初期農耕時期の縦穴住居址から、粥用製粉に使用された碾石(こんせき)(うす)が数多く出土している。

 中国の「荊楚(けいそ)歳時記」(六世紀)には、湖北、湖南地方の年中行事が記され、立春の日に、春餅や生菜を食したとあるが、その慣例は朝鮮全域に広がっていた。

 平安初期の「延喜式」には、七草粥は宮中で、正月十五日に供御(くこ)の粥としたと記され、その材料は、米、粟、黍、稗子(ひえ)、みの、胡麻、小豆の七種で、これに少量の塩を加えた。それが一般へと広がった。

 現代では、せり、なずな、ごぎょう、はこべ、ほとけのざ、すずな、すずしろ、となっている。日本列島では八世紀以後になると、全国各地で「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬさきに、七草はやす おててこてん」と唱えた。

 唐土の鳥は、鬼車鳥という俗説があるが、これは朝鮮をさし、文化が往来したことを如実に物語る。

 特に全羅北道は、もちが入った雑煮のふるさとで、陰暦正月元旦には、親戚一同が本家、または宗家に集い、家廊で祖先を偲び茶チャレ礼と呼ぶ祭チェサ祀をやる。

 そのとき、餅湯(ピョンタン)という雑煮を供え食すが、これが日本の「おぞうに」の源流と考える。

(2001.01.17 民団新聞)



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