民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
21世紀の民族教育を見つめて

民族学校の現場から<22>



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子どもの目線で接する
白淑美(金剛学園幼稚部)

 幼児期は、自分以外の幼児の存在に気づき、友達と関わることを通して自己の存在感や、他人への思いやり、集団への参加意識などの社会性が発達する大切な時期である。

 昨今、マスコミで報道されているように、今子供達の間では、いじめ・非行、いわゆる“キレやすい子ども”といった問題行動が増えている。また、多くの子供達が、心をいやされないまま、希望のない毎日を送っている。そこには、家庭・学校・地域社会というさまざまな要因がからみ合っている。

 最初の自己形成の時期である幼児期から「命の大切さ、人を思いやる気持ち、自己抑制」などを学ぶ体験が大切なのだと、問題が起きるたびに思う。

 そういう大切な幼児期の子供達と、今、再び共に生活しながら、責任の重さを感じている。

 卒業と同時に勤めたカトリック幼稚園。その幼稚園では、シスターが焼いたクッキーがおやつだったり、見栄は悪くても、子供達が自分で造った物を飾ることを重視していた。広い園庭で鬼ごっこしたり、バッタを捕まえたりしていた。常に、子どもの目の高さで接することを言われていた。ある日、韓国の幼稚園があることを兄から知らされた私は、園長と相談し、3年目に本園に転勤した。広い園庭もなく設備面に恵まれていなくても、楽しい時はくいいるような目で、つまらない時は退屈な目をする正直な子どもの、澄んだ目は変わらなかった。

 今年、再び本園で3歳児の担任として、昔、園長が言われた子どもの目の高さで接することを思い出している。大人の視線で、上から子供を見るのではなく、子どもの立場になって接することを思い出している。

 また、けんかや遊びの場面でも、「どこまで」私が関わっていけばいいのか、あえて踏み込むべきなのか、それとも引いて見守るべきか、わからない場合がある。

 昔の私ならば、「子供達に何が起きたのか」という現象にこだわっていたが、今では「そうせざるを得なかった」子どもの気持ちになって見ることが出来るようにもなった。

 幼児の発達する姿は、たとえ同年齢であってもそれぞれの生活経験や興味、関心、発想などによって一人ひとり異なっている。同じような活動をしているように見えても、一人ひとりの幼児の発達にとっての意味は違っている。だからこそ、保育者が望ましいと思う活動をおしつける保育者主導の画一的な保育ではなく、それぞれの幼児のもつよさを伸ばす保育でなければならない。

 画一的な人間を育てることではなく、自分らしさを、その子らしさを見つけだすことが私の役割だと痛感している。その子の行動の仕方や考え方などに現れた“その子らしさ”を大切にして、一人ひとりの幼児がその良さを発揮しつつ、育っていく過程を大切に見守って行かなければならないと…。

 子どもに対して「こうしなさい。」と命令したり、無理に子どもを動かそうとしていた自分を反省しつつ、「子どもたちにとってどうなのか」子どもの目の高さで接することを、常に私の保育の主軸にしたいと願っている。

 今、日本社会の中で、歌・舞踊・言葉カード・童詩などの遊びを通して、少しでも多くの韓国文化に触れさせてあげたい。そして国際人として韓国を忘れないでいてほしい。

(2001.03.07 民団新聞)



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