民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
21世紀の民族教育を見つめて

民族学校の現場から<29>



ボランティアの本質
張梨恵建国幼稚園・保母

 朝、いつものように登園し、それぞれが思いおもいに遊びに夢中になっている。そんないつもの風景の中に、ひときわ大きな影が見える。そう、建国小学校の児童たちである。

 「お姉ちゃん、この絵本読んで」「お兄ちゃん、飛行機つくって」と次々にくる要求に一所懸命にこたえようと奮闘している。初めは小さな弟、妹たちのためにと、いろいろ作っていたのが、そのうち自分自身が没頭するようになり、力作完成に満面の笑みを浮かべている。

 このような朝の20分程の児童と幼稚園児との交流は、ほぼ1年近く、そして今も続いている。

 きっかけは、小学6年生児童の当番活動で、当初の活動内容は、朝、正門前でスクールバスを出迎え、新年生と新入園児を教室まで付き添って連れて行く、というものであった。

 それがいつの間にか靴のはきかえ、荷物整理、着替えと、身のまわりのことまで手伝ってくれるようになった。

 4月の入園当初といえば幼稚園にとって1年中で一番忙しい時期。親から離れての初めての団体生活、他の子ども達との交流。新しい環境に慣れる。こんな大きな課題は3歳児にとっては重すぎる。当然泣く。幼児にとって泣くことは、不安、怒り、悲しみ、欲求の様々な感情の表現であり、自分の気もちを表に出し、心を整理する手段である。

 そんな姿を見ると、親の心もおだやかではなくなる。「今朝、えらく泣いていたが、無理にバスに乗せて送り出してしまった。大丈夫だろうか。給食はちゃんと食べてるだろうか」。

 受け入れる側の先生達も、実は毎朝はらはらしている。「今日は泣かないで来てくれるだろうか。少しでも早く、園生活に慣れてくれればいいな」と毎朝考えている。もっとも、そんな心配は子どもたちの元気な顔を見た途端、ふき飛んでしまうのだが。当の子ども自身はというと、周囲の心配をよそに、たいていの場合はひとしきり泣いた後は、案外ケロリとしていて、さっきまでの涙、涙の大洪水がウソのように、にこにこ笑って遊びはじめている。

 とはいえ、この状態になるまでが大変で、1人泣き出すとまた1人、と、周りがみんなもらい泣き。1人抱き上げると我も我もと先生のひざの上を奪い合う。

 こんな時、頼りになるのが六年生。泣いている子をなだめたり、オモチャを持って来て一緒に遊んであげたりと、いつの間にか子守り役までしてくれるようになった。

 「こら、ケンカしたらだめ。仲良く遊んでよ」と大人びた口調で言う。その度に、「君たちにもこんな時があったんやで」と話すと、「エヘヘ…」と恥ずかしそうに笑っている。

 そして当番活動期間も終わり新入園児たちもすっかり慣れて落ち着いたころ、「もうそろそろ大丈夫みたい。今までありがとうね」と言うと、「ううん。明日も来ます」「でも、クラブの朝練とかもあるし、大変でしょう?」というと、「それ以外の日に来ます」「そう。ありがとう」

 その場では何げなくさらりと交わした言葉を、心の中でくり返してみる。(本当にありがとう。幼稚園の子どもたちも、みんなと一緒に遊ぶのを楽しみにしてるよ)言葉で表すと何か空々しい感じがし、とうとう言えずじまいだった。

 「また来るねー。アンニョン」「また明日も一緒に遊んでねー」「お姉ちゃーん。まだ帰ったらあかん」「また休み時間に来るね」

 こんな会話を耳にした。小さな子どもたちとふれあうことにより、自身の心の中に芽生えた使命感や、親しみをもたれることに喜びを感じ、強制されることなく、心のままに行動する児童たちの姿に、ボランティアの本質を見た。

(2001.04.04 民団新聞)



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