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在日韓国人意識調査・活動余録

李孝徳(静岡文化芸術大学教員)



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必要とされる社会的紐帯

 社会統計はもとより社会学それ自体にも素人と言ってよい私が、在日韓国人意識調査に調査委員として加わったのは、ひとえに98年夏から1年ほどニューヨークに滞在したことが大きい。

 社会的少数者、とりわけ移民に代表されるエスニック・マイノリティが、社会的な抑圧や差別を免れるための自己防衛や生活の利便性から形成したコミュニティの存在とその役割に強く感銘を受け、在日同胞の「現在」についてあらためて考えさせられることになったからだ。

 コミュニティを「一定の地域に居住し、共属感情を持つ人々の集団」などとかたく捉えてしまうと、日本の抑圧的な村落共同体をイメージしてしまいがちだが、実際にはそんなイメージとはまったく違う、助けあって生きることがごく当たり前であるような人と人との肯定的なつながりが、そこでは感じられたのである。それは単純な近所付き合いにはじまり、教育、医療、就職、経済的互助、政治運動までに及ぶ社会的にして精神的な紐帯なのである。

 もちろん、短期間での観察からその肯定性を言い募ることは問題があるかもしれない。しかし一方で、現況の「在日」社会と比べたとき、コミュニティならではのオープンな議論空間が確保された、その具体的な紐帯に新鮮さを感じたこともまた事実である。

 考えてみれば、「在日」社会という言葉には「コミュニティ」といった言葉が持つ肯定的な集団性を感じることが難しいように思う。もちろん多数の在日同胞が居住して地域社会を形成している場所もあるが、しかし日帝支配、民族差別、南北分断といった歴史と政治に規定されて翻弄され、日本社会と対峙することで形成されてきた「在日」社会の紐帯の形が、そんなものはなくたって構わないといった立場までを含めて、きちんと議論されてきたようには思えない。

 とりわけ中心世代が2世・3世に移行し、価値観も生活様式も多様化していると言われる在日同胞の現在にあっては、そんな社会的紐帯は「理念」であり「抽象」でしかなく、少なくとも身近なものとしては考えられず、何となくその社会性を日本社会の中に拡散させているように感じさせられ、実際そう語られることが多い。

 しかし、本当に在日同胞は「在日」ならではの社会的な紐帯を必要としていないのだろうか。むしろ私には生活様式が変わり、価値観が多様化し、中心世代が移行しているにしても、それ故にこそ必要とされる「在日」の社会的紐帯があるのではないかという感覚を持っている。そんな「感覚」の当否を確かめたくて今回の調査に素人ながら加わった次第である。

 その結果の詳細に関しては、今春に出された「中間報告書」および今秋刊行予定の「最終報告書」にゆだねるほかはないが、「在日」社会は「コミュニティ」を強く必要としているというのが私の感触である。ただし、それは今まで語られてきた「在日」のイメージによっては到底構築できない「新しい形」でなければならないことを強調しておきたい。

(2001.06.27 民団新聞)



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