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在日韓国人意識調査・活動余録

李孝徳(静岡文化芸術大学教員)



 昨年、父親が72の齢を迎えて仕事を引退した。もちろん体力・気力の限界が大きな理由なのだろうが、今までの自分をゆっくりと振り返りつつ余生を楽しむ時間を送りたくなった、といったこともあるようだ。

 といっても老後などまともに考えられないできた一世の父親には、悠々自適には程遠い「余生」ではあるが、それでも12の歳に日本に渡って以来、生活のために働くというより働くことがそのまま生活であった父親にとって、仕事を引退した「今」は自分のために持てた初めての「時間」と言っていい。

 そんな父親が始めたことのひとつに読書がある。自分の好きな時間に好きな書物を好きなだけ読む。それは今まで生活上許されなかった「贅沢」であったわけだが、そうして手にし始めた書物が、自分が幼少期を送った植民地期の韓半島や戦後の「在日」の歴史であったりするのを知って、子どもの私には深々と感じ入るものがあった。

 図書館でそういった書物を読んで帰ってきては「くそお〜、日本人めぇ」とひとりごちているという話を母親から聞いて微苦笑を禁じえないものの、しかし、そうした「現実」を一番厳しく生きてきた当事者がその「現実」を認識しておらず、70歳を過ぎて自分の生きてきた「歴史」を初めて知り、「過去」に歯軋りする姿にはどこか痛ましさを感じずにはいられない。

 考えてみれば、そんな事態は一世や二世の高齢者に限られるわけではないだろう。私自身を含め、多くの在日同胞にとって「在日」の経験・歴史とは、もっぱら自らの経験を通じて意識化されたものなのではないかと思う。日本社会や韓半島の問題や状況との関わりの中で共有されている〈われわれ〉の「歴史」はもちろんあるだろうが、しかし自分たち自身の、言わば「在日」社会を客観視し、検証して相対化し、歴史化するような作業はどれだけやられてきただろうか。

 「在日」にとって「在日」であることはあまりにも自明でありすぎて、「在日」自らがどのような問題を抱え、いかなる<生>を送っているのか、送ってきたのかは、実はそれほど考えられてこなかったように思う。

 もちろん、そうした反省の機会すら許さなかった日本社会の抑圧性や、冷戦構造に翻弄された韓半島の分断状況が与えた影響を忘れるわけにはいかない。

 しかし今回の「意識調査」の結果が示唆するのは、定住年数の長さや時代の大きな変化の故だろうが、「在日」社会も大きく変容しており、様々に断絶線が走っているらしいことである。

 たとえば価値観や生活観、歴史意識や社会意識、民族観や家族観などにおいて、男性と女性で、年齢や世代で大きな違いがあり、アイデンティティや自己の肯定性といった自己確認のあり方もきわめて多様なのである。

 そこには、「民族性」や「在日性」といった、従来信じられてきた枠組みで簡単にまとめられる集団性があるわけではなく、それではもはや「在日」の<現在>をとらえることはできなくなっているのである。ただその一方で、日本社会で、「在日」社会で、家族の中で出会う微妙な、しかし決定的な<差異>を意識化している姿は調査結果のはしばしで立ち現れている。

 今回の意識調査を始まりとして、その感じられる微妙だが決定的な「差異」を救い上げて考察していくことが、「在日」の未来につながるのだろうと強く感じている。

(静岡文化芸術大学教員)



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