民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
在日韓国人意識調査・活動余録

朴和美(翻訳業)



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新しい形の「社会的紐帯」

 7月初めに、私は大阪で在日女性グループ「ちゃめ」の何人かと会う機会をもつことができた。このグループの誕生は、私と友人たちが97年に(財)横浜女性協会の助成金を得て主催した「在日コリアン女性のためのエンパワーメント・ワークショップ」にその萌芽がある。

 男たちの天下国家という「大きな物語」ではとりおとされてしまう、女一人ひとりの「小さな物語」を紡ぎだすために在日の女たちが出会い始めている。この大阪の「グループちゃめ」は小規模ながらすでにワークショップを3回開催している。そしてつい最近、2冊目の報告集(注)も出した。これまであまり目にすることのなかった、在日の女たちの「つぶやき」と「ささやき」がこの報告集の中でキラキラと光を放っている。

 彼女たちとの語らいは、私に在日の女として生きることの「試練」と「勇気」を同時に思い起こさせた。また、これから先の「困難」と「希望」をも予感させた。これまで家族(家庭)という「私的領域」に囲い込まれてきた在日の女たちの多くは、複雑に絡み合った「温情的家父長制」の網の目の中でのたうちまわっている。舅姑との、夫との、母との、親類縁者との、子どもとの、隣近所の人との、そしてなによりも「自分自身」との関係のもち方に悩んでいる多くの女たちがいる。だが、女が個人として抱えている悩みが、実は彼女個人の問題ではなく、社会と密接な関わりをもった問題であることを理解し始めてもいるのだ。

 今回の「在日韓国人意識調査」の結果から見えてきたことの一つは、在日の女と男の間に横たわる大きな意識のズレだ。それは家族成員に対する感じ方であったり、「民族」という言葉に対する反応であったりする。とりわけ私の興味を引いたのは「どんな在日の専門家を必要としているのか」という問いへの答えだった。在日の若い世代と女たちは「カウンセラー」という心理相談の専門家を年長の男たちよりも強く望んでいるのだ。また調査結果に表れた、(男性と比較しての)在日女性の「民族」への全体的な冷ややかさをどのように解釈すればいいのだろうか。

 ドメスチック・バイオレンス(DV)や児童虐待といった言葉が少しずつ市民権をもち始めた日本社会では、「家族は幸福共同体」という幻想に疑問を感じ始めた人たちが増えている。日本社会の差別によって人間性を奪われ続けてきた多くの在日にとって、家族(家庭)は「人間性」を回復できる数少ない避難所(アジール)の役割を長い間担わされてきた。

 だがいま、その在日家族(家庭)が一体だれにとっての「憩い・癒し」の場であったのかが問われている。在日の男たちの多くが日本社会から受ける「大きな暴力」を、在日家族に内包される(女子どもへの)「小さな暴力」の言い訳にしてはならないのだ。こうした「暴力」(抑圧)が、なぜそしてどのように生みだされてしまうのかという根本的な問題を探求していくことが是非とも必要なのだ。

 これまでの在日社会は、被差別体験によって引き起こされた否定的な「感情」(悲しみ・痛み・無力感・絶望感・不安・孤立感・怒りなど)の問題をケアする余裕がなかった。まずは日本という「異国」で生き延びていくことが最優先課題だったからだ。だが3世・4世そして5世が育ちつつある現在、こうした「こころ」の問題を対岸の火事として放っておくわけにはいかない。「こころ」の問題の多くは、社会問題との複雑な連鎖の中で発生してくるものなのだから。

 今回の調査によって、在日がある側面で新しい形の社会的紐帯(コミュニティ)を求めていることが浮き彫りになってきた。もしかすると「大阪ちゃめ」が模索している「ゆるやかなネットワーク」が一つのモデルになりえるかもしれない。在日の中には「孤立から自立」に向かって、小さくとも力強い一歩をすでに踏みだしている女たちがいるのだ。

(2001.07.25 民団新聞)



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