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兵庫・浜坂町の満願寺

朝鮮通信使関連の扁額



扁額が掲げられている満願寺

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岸和田城主が仲立ち
住職が大阪で揮亳受ける

 「泉州岸和田城主岡部美濃守」は現在の大阪府岸和田市に本拠を構えた藩で、寛永17(1640)年に岡部氏が入封し、明治維新まで13代続いた5万3千石の譜代大名である。歴代の城主は朝鮮通信使が来日するたび、大坂西本願寺で接待役を勤め、第10次の使節団が来日した延享5年時の城主は6代岡部長著だった。

 「挙達」というのは寺側の願いを達成させたとの意味であり、「義白」とは時の満願寺住職、月洲義白のことである。

 『浜坂町誌』によれば、満願寺は寛永15(1638)年創建の、当地では古い寺であり、したがって当地草分け層の檀徒が多いとあり「義白は延享2(1745)年、大御堂を再建し、梵鐘を改鋳し、鐘楼を建て、続いて本尊観世音の大厨子を造営するなど、大いに寺の面目を一新した」と記しているから、たいへん活動的な僧であり、寺には貢献の多かった人物であったようだ。

 「下田弁助」らは、揮毫してもらった書を扁額にするために協力してもらった地元の豪商、檀徒たちであるという。

 しかし、なぜまた遠く離れた岸和田の城主が登場するのだろうか。それも岡部さんの説明によれば、城主岡部長著の菩提寺の住職を勤めた僧が満願寺の住職を勤めたこともあり、その縁で義白と城主のつながりができたのだろうということだった。一方、朝鮮側の記録『奉使日本時聞見録』を見ると、大坂で「館伴美濃守」が登場するが、彼が接待役の岡部長著である。

 通信使一行が往路4月22日から30日まで大坂に留まっている間、長著は三使の接待を気遣いながらも「写字官と画員を招いて書と画を請い、錦の模様入りの紙を贈って来た」と記され、扁額の裏面に書かれてあることを裏付けている。

 その上、「明暦元(1655)年に使節が来坂したとき、私(長著)の曾祖が使臣の筆跡を得て今まで家宝として秘蔵している。今回も三使の筆跡を得て、子孫が見て更に光り輝くようにしてほしい」と要望するので、帰路に書き与えると約束していることも記されていて、城主自らも揮毫を請うている。

 さらに同書は、「日本人の風俗としては、わが国の人の筆蹟を得ておけば何事でもみな必ず成就されるという空気」があり、「卑しい日本人の如きに至っては、船夫の輩にまで書を求め、諺文を書いてやると、それを得て貴く思っている」とも記している。

 通信使一行が訪日するたび、書画を求む日本の知識人らが面談を請うたことがいずれの紀行文にも書き留められているが、単に記念のためというのではなく、朝鮮の能筆家に揮毫してもらうことが家運の隆盛に繋がるという吉兆物であったということが分かる。兵庫県下では室津に寄港した通信使に揮毫してもらった書が福崎町大善寺にあり、また兵庫津に寄港した時の書が神戸市の禅昌寺にそれぞれ扁額として今なお掲げられている。いずれも住職が自ら出向き、能筆の写字官に揮毫してもらったものだ。

 満願寺の義白もまた十数年に一度の来日の機会を逃さず、遠く離れた大坂まで二百数十`の道のりを何日もかけて赴き、多くの人々が先を争って使節に面談を請うなか、懇意にしている岸和田城主を仲立ちにして自身の寺の山号を揮毫してもらったものと思われる。

 そして、ようやく揮毫してもらった書を14年後の宝暦12年、檀徒の協力を得て扁額にし、寺の繁栄を願って本堂に掲げたものだという経緯を知ることができる。

 満願寺の扁額からは、通信使一行の往来した瀬戸内や東海道筋だけでなく、遠く離れた寒村の人々さえ、通信使来日を奇貨として、村の発展に資そうとしたことをかいま見ることができる。

(2001.10.24 民団新聞)



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