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金剛山観光随行記「北の大地へ」<下>



金剛山観光客が宿泊する
海上ホテル海金剛
眼の前に分断の現実…道路の両側は有刺鉄線

 金剛山は私にとって、機会さえあればまた訪れたくなる土地になった。多くの日本人が紅葉の季節に京都に思いをはせるように、金剛山の四季折々の美しさが、韓民族に格別な思いを抱かせてきたこともわかった。

 しかし、かなわぬこととは知りつつも、普通の北の同胞ともっと自然に、自由にふれあいたいという気持ちが強かったのも確かだ。

 一般市民と断絶するためなのか、両側を有刺鉄線で囲われた道を、食事や温泉浴などで何度も往復した。移動する私たちを凝視していたのは、数10b間隔で立っている兵士たちだった。厳しい南北分断の現実が目の前にあった。

 車窓から表の風景を写真に収めるのは禁止、バスのカーテンを覆うことすら当局の警戒心を引き起こすという理由からダメだった。

 観光客のための食堂や土産物店などで働く人たちは、中国から来た朝鮮族で、女性はみな判で押したように小柄でかわいらしいタイプ。ここは本当に北の一部なのか。


■在日の「離散家族」

 金剛山から下山し、短かった旅が終わる頃のことだ。38度線以北に出身地がある古老が、大事そうに北の石を持っていることに気づいた。

 韓国戦争で兄弟姉妹が犠牲になり、残った親族の行方は今もわからないと言う。彼が故郷を訪れることができるのはいつの日だろうか。望郷の思い断ちがたい「離散家族」が日本にもいることを北当局は考慮し、人道的な措置を取るつもりがあるのだろうか。

 旅装をまとめ「出国」手続きを待つ私たちの耳には、「アンニョンヒ・タシ・マンナヨ」と繰り返す別れの歌が響き続けた。金剛山は晩秋の夢、一期一会かもしれないと思うと、しんみりとした。


■灯りは自由の象徴

 船は長箭港を出発した。短くもあり、長くもありの北での2泊3日。瞼に焼き付いているのは、鉄線越しにかいま見た民家とそこで暮らす人々の姿だ。真っ黒に日焼けしたおじさん。レール沿いを歩く子ども。セピア色の風景が、かつて炭鉱労働にかり出された在日同胞の飯場を記憶の底から呼び起こした。

 手を振り返してくれた少年に、心の中で叫ぶ。「統一の日まで必ず生きていてくれ」。目の前が涙でぼやけてきた。

 船が束草港に近づくにつれ、街の灯りが見えてきた。みんな一様にホッとした表情を見せる。灯りとは自由と豊かさの象徴だと初めて知った。

 歴史的な南北対話から1年半が過ぎ、当時の熱気は時間の経過とともに冷めつつある。北の指導者のソウル訪問も暗礁に乗り上げている。相互不可侵さえ確立されれば、統一は無理しなくても…という意見も聞く。


■半歩でも前へ

 それでも私たちは半歩でも前に進みたい。平和定着と統一にいろんな困難はあっても、すでにパンドラの箱は開かれたのだ。決してあきらめてはいけない。

 南の雪岳山から北の金剛山へ。60年代のスローガン「来たれ北へ行こう南へ」が、21世紀に実を結ぶために、在日同胞が大挙して祖国の南北を訪れること、それを新春の夢にしたい。

(「哲恩・民団中央本部宣伝局長)

(2001.12.12 民団新聞)



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