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同胞社会から提案を
■違い#Fめて
学校改革の論議が始まって間もないころ、大阪府教育委員会の幹部が外国人施策に関して府に諮問する「有識者会議」の席上、「総合学習の時間を活用することで、民族教育が学校教育のなかで取り組めるようになる」と発言し、注目を集めた。
これまで公立学校の現場では、そこに在籍する同胞の子どもたち(国籍を問わず)の教育について、他の日本人の子どもたちと平等≠ノ扱うことが本人のため≠ニする考えが主にあり、同胞の保護者に向かって「差別はありません。クラスでは平等に教育していますから」と堂々と答える教員が少なくない。
この日本人と同じく∴オうことを本人のためだ≠ニ思いこんでいる意識は、否定的で差別的な韓国・朝鮮観に基づくところが大きいが、一方でみな同じく扱う≠ニいう予定調和的で、横並び式であったこれまでの学校文化にも起因する。
民族教育を公立学校の現場で取り組む意味は、公立学校における民族的マイノリティの子どもたちの受け皿を整備することと共に、学校現場や教室の多文化♂サを促進する役割を担うことである。
そうした意味で民族教育に取り組むことは、子どもたちの背景を出発点にした多様な教育ニーズに対応する学校に近づくことになる。
■授業で在日学習
先日、ある中学校で民族講師と同胞の保護者たちをゲストティーチャーに招き、チヂミとトックの調理実習が行われた。
調理に取りかかる前、民族講師が、「チヂミ」は慶尚道の方言であり、韓国では、ピンデトックやパジョン、プチムゲなどと呼ばれていること、日本で「チヂミ」という料理名が一般的なのは、在日同胞に慶尚道をはじめとした南部地方出身者が多いためと説明した。
この授業で普段の調理実習には出てこない在日同胞社会に関する学習が取り上げられたのは、「総合学習」ならではのものだろう。「チヂミ」が方言であるとか南部出身者が多いために「チヂミ」と呼ばれてきた―などは、当事者である民族講師や保護者らが関わって初めて実現した学習といえる。
■教室に入ろう
「総合学習」はこれまでビデオや書籍などの教材の中だけの存在であった「在日韓国・朝鮮人」を、あるいはなんとなく取り上げにくかった「在日韓国・朝鮮人問題」を、進め方しだいでは教室の中で堂々と子どもたちが論じていく「きっかけ」となる。これらの取り組みが進めば進むほど、日本人と在日同胞との出会いの質が変わっていく。
ただ机上の学習に終わるのではなく、その学校に在籍する同胞の子どもたちの背景を活かすにはどうすればいいかという問題意識の中で、同胞保護者や地域の同胞青年が教室に入り込み、当事者の考え方や文化を子どもたちに投げかけていく。 「総合学習」で「私たちはこんなお手伝いができる」と、同胞社会から学校に提案していくことが必要であろう。
〈寄稿〉
(2002.04.17 民団新聞)
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