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連載「総合学習」どう生かす<3>

異文化理解足元から 民促協・金光敏



■「在日」理解が先

 学校が同胞保護者や民団、総連の方々を招き、当事者の思いを直接聞くことで在日韓国・朝鮮人問題に向き合おうとする取り組みが増えている。素晴らしいことだが、少し心配な部分もある。在日同胞との交流を「国際交流」や「多様な国の一つ」という観点で接するケースが多いことだ。

 ある学校では、在日同胞と近隣の大学から招いた肌の色の異なる留学生とを並べて紹介していた。子どもたちには他の留学生と同様、「韓国を代表して」招いた在日同胞に「いつ日本に来たのか」「日本語をいつ習ったのか」という質問をさせていた。

 招かれた側の在日同胞は必至に質問に答えようとする。しかし、在日同胞に関する事前学習もなにもない子どもたちは、日本語の会話に違和感のないことに拍子抜けし、会話が続かない。こういうケースは意外に多い。

 こうした取り組みは興味本位としては楽しい。子どもたちにも、「非日常」の取り組みとして刺激的であろう。しかし、その学校に在籍している同胞の子どもたちはどうか。私なりの経験で言えば、元気になるどころか疎外感さえ感じさせる結果を生むことにもつながりかねない。今、むしろこうした学習が増えていることを危惧している。

 大阪府内のある市では、いち早く小学校での英会話授業の実施を決め、講師の招聘を決めた。「総合学習」を見越した施策である。英会話を否定するものではないが、英語教育=英米理解=国際化という短絡的な発想に立ってはいないかと心配する。


■英米追随を危惧

 英会話なら、アジアでも英語を使う国があるわけで、外国人=英米系というステレオタイプ的な国際理解学習は、アジアに対する差別意識や英米追随の意識を温存させるだけで、マイノリティの立場である同胞の子どもたちをより孤立させる結果さえ生む。

 大阪の八尾市には、同胞の子どもたちと、インドシナ難民で渡日したベトナム出身の子どもたちの民族クラブに取り組んでいる学校がある。この学校では、子どもたちが「日常」のなかで異文化を受け入れ、地図上ではない私の学校にある「韓国・朝鮮」「ベトナム」と出会う。この風景は「違いを認めあう寛容な社会」と、「民族的・文化的な紛争や葛藤を未然に防止する」ことを目指した国際人権諸条約が提起した風景に近い。

 私たちの考える「総合学習」は、同胞の子どもたちが元気になる取り組みであるべきだろう。日本社会の一般的な興味≠ノ合わせるのではなく、その学校にいる私の子ども、地域の同胞の子どもたちが、これに取り組めばどう変わるのかを常に問題意識として持ちながら「総合学習」が取り組まれるよう、地域の学校に関わっていきたい。

(2002.04.24 民団新聞)



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