民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
日本市場で評価高まる

確固たる地位築いたコリアン・ブランド



東京・渋谷
ハチ公前に輝く
SAMSUNGの超大型ネオン

 1980年代、韓国をはじめ台湾、香港などアジアの新興工業国・地域(NIES)から日本に多くの製品が持ち込まれた。当時、日本製品と比較されて「安かろう悪かろう」と揶揄されてきた。しかし、21世紀に入った現在、韓国から進出した企業は現地法人を作り、しっかりと根を下ろした。すでに日本で確固たる地位を築き上げ、押しも押されもせぬブランド名を残した企業も多い。日本市場へのアプローチの仕方は違っても、しっかりと日本の土壌に根を張っている。


■□
サムスン

高いデジタル技術に信頼

液晶製品を適正価格で提供
ネット直販で中間マージンカット

 今年上半期の売上高68兆ウォン、税引き前利益8兆2000億ウォンという創業以来の実績を達成したサムスングループ。半導体などサムスンの主力製品の販売が伸びた結果だった。

 サムスンの母体は1939年、大邱で産声を上げた三星商会だ。日本への進出も早かった。6・25韓国戦争の休戦協定が結ばれた1953年の10月、三星物産東京支店が開設された。戦争の爪痕は大きく、物資不足の中で、日本から機械類など生産設備を買い付けた。75年には現地法人・三星ジャパンを設立、89年には成長著しい三星電子の現地法人も作られた。98年に電子と物産はじめ他の13社が統合して現在の日本サムスンが誕生した。

 サムスンは、鉄鋼・金属、化学製品、電子部品、家電製品など何でも扱う巨大企業集団だ。特に電子、家電など先端技術製品の成長は著しく、DRAM、SRAMのメモリー部門ではマーケットシェア世界1を誇る。TFT液晶、カラーモニター、電子レンジも世界1を走っている。

 メモリー、液晶モニターでは、世界の大手コンピュータメーカーで、採用していない企業を探すほうが早いほどだ。携帯電話でもノキア、モトローラとともに世界3指に入る。

 液晶(LCD)事業の開始は93年。98年には液晶ディスプレイ生産量で世界1位に上りつめた。

 日本サムスンの日本での販売は、メモリーなどデバイス関連がまだ多いが、今後それをひっくり返して、液晶モニター、液晶テレビ、DVDプレーヤーなどエンドユーザー向けの製品を増やす努力を傾けている。今年末には、日本でも徐々に製品を増やしつつあるプラズマテレビを投入する計画だ。

 サムスン製品は、ビデオ、テレビで名を知られてきたが、より付加価値の高い液晶テレビ、プラズマテレビ、DVDプレーヤーなどデジタル関連の商品にシフトしている。

 もちろん冷蔵庫や洗濯機など白物家電も、明確なコンセプトで販売をのばしている。現在の20代30代の若い層の消費者は、自分のコンセプトにあえば日本製品にこだわらない。ニーズを満たし、安ければもっと良いという明確な購買行動パターンを持っている。過去のような「日本製でなければ」という思いこみは少ない。

 日本有数の電気街、秋葉原の家電店には、DVDプレーヤーやビデオデッキ、液晶テレビなどサムスンの製品が目に付く。

 毎年行われる、18歳以上の消費者を対象にした全国調査では、10人中3人(31%)がサムスンの名前を知っているという結果が出ている。テレビコマーシャルを流していないにもかかわらず、認知度は高い。ここ3年間は変わらない水準で推移している。製品を通じてサムスンの名前が広がっている証拠だ。

 80年代、日本の消費者の性格をよく知らずに販売したツケが今も響いている。すなわち、日本の消費者はアフターサービスに非常に高い価値を置く。満足できる物を求めるために購入した価格とは関係なく、同じ程度のアフターサービスを求める。サムスン製品だけでなく、アジアから日本に製品を持ち込んだメーカのほとんどは、アフターサービスが万全でなかった。結果的に、日本の市場に「安かろう悪かろう」と言う印象を残してしまった。アジア製品に対する不信感に近い感情を生んでしまったのだ。

 95年ぐらいから徐々に半導体で有名になり、2000年からは液晶モニタで知名度があがった。デジタルは先端技術のイメージ。サムスンの知名度を変えようと液晶で勝負に出た。明確なコンセプトの製品を適正価格で提供した。

 だが、量販店に出していても、販売網や知名度が無く、振るわなかった。すでに高い評価を受けていた世界水準から見れば、日本市場での評価は厳しかった。しかし、この状況を冷静に受け止めて、製品を撤収、2000年4月からラインナップを一新して、目玉商品を出しながらインターネット直販だけというビジネスに切り替えた。

 PC関連製品は初心者向けとは言えない。2台目3台目のPCを買う人だけをターゲットにしてモニター単体やノートPCを販売している。ここまで特化した。このほか、液晶モニターにTVチューナーをつけた製品も人気を呼んだ。

 代理店とのしがらみが無かったことが直販のみにできた理由の一つでもある。エンドユーザーが求めやすい値段にするために、徹底的に中間マージンを無くした。

 高性能、低価格。液晶モニター、ノートPC、DVDプレーヤなど直販が人気を呼んだ。このような動きの中で、小売り販売店の中から、サムスン製品を置きたいという要望も出てきている。

 「サムスンというブランドを知っているのと、買うのは別の話。同じ物が同じ値段で並んだ時、迷わず選択してもらえるようなブランド力のある商品を育てなければ、日本の市場、世界の市場で生き残ることはできない」。ここに日本市場に挑む意気込みがみられる。

 これまでの丸いブラウン管のテレビはフラットテレビに、そして液晶、最先端技術のプラズマテレビへと速いテンポでラインナップを一新しながら、日本市場にサムスンブランドを広げている。


東京・六本木の
正統韓国料理店・眞露ガーデン

■□
眞露

新しい酒のジャンル築く

日本人の嗜好を徹底研究
甲類焼酎単一銘柄でトップに

 アジアでも最大級の焼酎王国、韓国―。庶民のお酒はもちろんソジュ(焼酎)だ。会社帰りに同僚や先輩、後輩とグラスを傾ける、日本と変わらぬ光景が見られる。そんな韓国の土壌で育てられた真露焼酎が、日本に上陸して26年を迎えた。

 緑のボトルに黄色いラベル、赤いJINROのロゴ。インパクトの強さは1級だ。日本向けのJINROは、79年以来、売り上げは右肩上がりの成長を続けた。特に91年から97年の7年間は、毎年120%以上の成長を続けた。

 眞露焼酎を初めて日本に持ち込んだのは、鹿島酒類販売の岸根健三郎社長(現会長)だった。たびたび訪れた韓国で、飲むたびにその味に惚れ込んだ。「日本で売れる」と判断するやいなや、眞露本社に駆け込んだ。日本で一手に販売させて欲しい、と。JINROの歩みは、ここから始まった。

 こうして76年、ソウルで売られている眞露がそのまま日本へ持ち込まれた。売れるはずだった。意気揚々と販売を開始した前に立ちはだかったのは、韓日の酒文化の違いだった。日本ではお湯や水で割って飲む場合が多い。韓国では焼酎はストレートで飲む。割って飲む文化は無かった。

 眞露には韓国料理の濃厚な味に負けないように甘味料が入っていた。水や湯、ジュースで割ると甘味料が邪魔をした。

 改めて日本人の酒の飲み方を分析した。淡泊な日本食にあうのは、やはり淡泊な日本酒だった。焼酎でも水、湯で割ってさらりと飲む傾向を突き止めた。

 このままではダメだ。日本で日本人に商品を売るためには、日本人に受け入れられる味でなければ。「商品の現地化」が不可欠と判断した。

 まず甘味を抜いた。水や湯、ジュースで割ってもスッキリとしたうま味が損なわれない酒質を目指した。試行錯誤を経て、目指す味が完成した時、3年の歳月が経っていた。

 79年、徹底的に日本市場を研究して開発したニュー眞露ともいうべき「JINRO」を引っさげて正式に日本市場に挑戦した。この時、緑のボトルに黄色いラベル、赤いロゴという現在にまで続く印象的パッケージが採用された。

 だが、初年度はわずか4200ケース(1ケース12本入り)という厳しいスタートだった。韓国の酒?臭い、キムチの味がするという声もあった。ただの誹謗(ひぼう)に過ぎないと一蹴した。一方で、焼酎大国の韓国で、何十年もの間認められてきた品質は、ほかの酒に負けない自信があったからだ。

 結果を出したい。値引きや条件付き販売に走れば結果は出る。だがその先には「安かろう悪かろう」しか残らないではないか。ぐっとこらえた。

 短絡的な結果は求めなかった。売り急ぎせず、じっくりと商品を育てる手法をとった。価値あるものには相応の対価を払う≠ニいう日本の消費者の意識構造を考え、日本の同種・同クラスのものより10%高い価格を設定した。

 値崩れしないことから、流通段階で相応のマージンが確保された。つまり、JINROを売れば売るほど、しっかりと利益が問屋に落ちる「利益商材」となった。

 この方針に沿って着々と販売を積み重ねた。86年に眞露東京事務所を開設、翌87年に東京支店に昇格させ、さらに翌年には日本法人・眞露ジャパン株式会社を設立させるなど矢継ぎ早に販売体制の強化を続けた。我慢の12〜13年≠ニいわれる、世の中がバブル景気に踊らされ始めた時期だった。

 91年、前年比127%増の売り上げとなった。92年も前年比132%増で、JINRO販売実績50万ケース突破を記録した。初年度の約120倍の販売数に湧いた。

 興味深いことに、バブル景気がはじけてから売り上げが伸びた。バブル崩壊と同時にコニャック、ドンペリニヨンなど高級な酒の売り上げは激減した。見た目も高級感がありオシャレでもあったJINROが、その部分の客層をつかんだ。

 そのオシャレな感覚がJINROという酒の強さを象徴する。JINROは焼酎であって焼酎という範ちゅうを飛び越えた商品となった。「ビールにする?日本酒?それともJINROにする」という会話が成り立った。JINROという新しい酒のジャンルを作った。焼酎とは違うマーケットで売られている。

 94年には100万ケースを突破した。急成長に満足せず、96年には攻めに出た。消費に影響がある20代30代をターゲットに、皆でにぎやかに飲む楽しさを全面に押し出したテレビコマーシャルをオンエアした。JINRO認知率は一気に首都圏を中心に20%アップの70%にまで急伸した。同時に販売200万ケースを突破した。

 2年後の98年、甲類焼酎の単一銘柄で比較した場合、日本トップに躍り出た。今では、銀座の超高級クラブにナポレオンと同じ棚に並べられていたり、高級すし店にも置かれている。

 眞露ジャパン自体は、JINROの販売と同時に、韓国の食文化を代表する会社を目指して正統韓国料理店、眞露ガーデンを都内に2店舗開設した。

 本場キムチなど眞露ブランドを生かした食品事業もスタートさせた。常に先を見越した、攻めの戦略といえる。

 酒類全体の売り上げは微減傾向にあるが、甲類焼酎は伸びている。各メーカーがしのぎを削る中、来年は売り上げ300億円、500万ケース突破を目標に掲げた。

 韓国の食文化で育まれた眞露が今、日本の食文化に根付いた。


赤・黒・黄の原色が人目を引く
農心の自心作・辛ラーメン

■□
農心

「辛さ」で即席麺市場開拓

「韓国一の味」自信持ち販売
16年のロングセラーで人気上昇

 世界で初めて即席麺を開発した日本。数十のメーカーが様々な味でしのぎを削る日本のインスタントラーメン業界は、5000億円市場といわれる。

 真っ赤な袋に、真っ黒で大きく「辛」と挑戦的に書かれたパッケージが人目を引く。ラーメンと書かれたハングルが大韓民国製品であることを主張する。韓国で即席麺シェア65%とトップを走る農心(NONGSHIM)の主力商品だ。

 農心は、韓日の国交が正常化された1965年に創業した。韓国でも即席麺がきっと売れる―。ロッテ辛格浩会長の弟、辛春浩現会長が農心の創業者だ。世界初の即席麺、日清のチキンラーメン発売から7年後のことだった。

 80年代、2年早く産声を上げてトップを走っていたメーカーを追い抜いた。86年、満を持して辛さと牛肉味を調和させた辛ラーメンを世に問うた。韓国でシェア65%という圧倒的人気を得た。86年に誕生して以来、16年のロングセラーは日清のチキンラーメンにも劣らない。

 88年以前、日本市場に初めて韓国の即席麺を持ち込んだ。「韓国製品の特徴は値段。日本の味に合わせて安く」と業者から依頼されたのは味噌や醤油味の、いわゆる日本の即席麺の製造だった。だが、農心の名前を冠さないPB(プライベートブランド)は見事に失敗した。

 「日本の味は日本メーカーが何歩も先を進んでいる。真似ても勝てるわけがない。そのままの味で勝負だ」。韓国での圧倒的支持を持つ辛ラーメンを日本市場に投入したのはソウル五輪の88年のことだった。

 しかし、日本の食文化に「辛さ」の要素はほとんどない。日本のラーメンメーカーが調査した味の分類によると、辛いもの好きはわずか5%に過ぎなかった。

 韓国の味そのままを売る。失敗すれば後がない―。プレッシャーに潰されそうになった東京の営業マンを勇気づけたのは辛会長のポリシーだった。「辛ラーメンは世界に通用する味、自信をもって売れ」という声が背中を後押しした。

 不安をぬぐい去るかのように、うま辛い&ネになる味と韓国ブーム≠ノも乗って業績は伸びた。以来、販売実績は右肩上がりだ。

 日本の物と比べて、カップ入りは同じ値段、袋入りは高いにもかかわらず売れた。値段の問題じゃない。韓国国民の65%が認めた味は、日本でも受け入れられたのだ。

 日本をはじめ米国、欧州、中国、台湾など世界40カ国で食べられている。会長のポリシー通り、「世界中同じ味」で売っている。中国には製造工場まで作った。

 日本に持ち込んだ当初、バイヤーからはもう少し辛さを抑えてほしいという要望もあった。そこで味に妥協していたら、今の成功はなかっただろうと振り返る。

手軽に食べられることで
人気が高い辛カップ

 日本の市場は、コンビニが販売の試験場だ。大型スーパーと違って、狭い店内で最大効率をあげるコンビニ。売れない商品は即座に陳列棚から淘汰される弱肉強食の世界だ。だが、コンビニに置いてもらうこと自体が難関でもあった。

 新製品を次々と投入する日本の大手メーカーと陳列スペースを賭けての競争だった。製品には絶対の自信があった。しかし、商品構成でも、新製品の数でも及ばない。あとは粘りしかなかった。

 しかし、ここで売るんだという強い意志が道を切り開いた。94年から北は北海道から南は沖縄まで、セブンイレブンなど全国のコンビニの棚に辛ラーメンが並べられた。圧倒的な数の店舗で売られたことで辛ラーメンの認知度は全国的に急上昇した。

 コンビニでの販売は成功した。今は、ダイエーなどスーパーマーケットで恒常的に販売されるアイテムとして定着した。

 今年1月、業績の伸びとともに心機一転して、東京営業所を農心ジャパン(金大廈社長)という現地法人として創立した。

 主力商品の辛ラーメン、キムチラーメンで市場を攻める。目標は辛ラーメンブランドの定着。日本市場の中で、10%にまで伸ばしたい。秘策は、日本市場だけの特定アイテムとして各地域ごとの味をラーメンに反映させた「韓国の味紀行」の販売だ。現在、韓国の本社で試作段階にある。

 金社長は次のように分析している。五輪前後の韓国ブームはすぐに終わった。97、98年から始まったブームは、日本の漬け物市場で定番になったキムチの味が底流にある。前のブームとは違って定着できる可能性は今の方が大きい、とブランド名を伸ばすチャンスと捉えている。

 農心ジャパンの今年度売り上げ目標は15億円。そのうち70%が主力の辛ラーメンの売り上げだ。法人になって今年は、ワールドカップ韓日大会も後押ししたために、売り上げは昨年の50%以上の伸びを示している。

 14年をかけて今、辛ラーメンは日本の食文化の中に、しっかりと「辛」という味を根付かせた。

(2002.08.15 民団新聞)



この号のインデックスページへBackNumberインデックスページへ


民団に対するお問い合わせはこちらへ