民団新聞 MINDAN
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邁進・信念・挑戦

頑張れコリアン



林まつりさん

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林まつりさん
少女漫画家

一発勝負のネタ作り
笑いのエッセンス4コマに

 幼稚園のころから漫画家になろうと思っていた絵を描くことも少女漫画を読むことも好きな少女だった。特に専門的に絵の勉強をしたことはない。

 漫画家としてデビューしたのは、卒業を前にした高校3年の春だ。きっかけは少女漫画雑誌「別冊マーガレット」が毎月行っているマンガスクールへ投稿したこと。同スクールでは毎月、最高賞にあたるベスト賞に選んだ投稿者を新人デビューさせていた。

 デビューのチャンスを獲得したのは3度目の投稿の時。この時の作品は4コマのギャグ漫画だった。実は1度目の作品はストーリー漫画だったが、あと一歩のところで入選を逃す。次の作品を早く描きたいと、2度目からページ数が半分でも応募できるギャグ漫画に切り替えた。

 デビュー当時、住まいが仙台ということもあり、仕事は月1,2本程度をコンスタントにこなしていたが、漫画家で生計をたてていこうとはまだ、真剣に考えられなかったという。また、このころ長年の肥満がコンプレックスとなって、神経症に悩まされていた。一念発起したのは24歳の時。医師からの勧めもあり、1年をかけてダイエットを決行。115`から50`への減量を行った。

 自叙伝「変心」では、自ら行った壮絶なダイエットの記録をはじめ、家族やこの間の思いが、自らの漫画とともに綴られている。仕事をしながら苦しい時期を乗り越えた。意を決し東京に上京したのは25歳の時。親元から自立したいという理由からだ。出版社への作品の持ち込みも行った。

 現在、女性誌や成年誌でギャグ漫画やエッセイ漫画を発表しているほか、コンサートルポと現場の様子を4コマ漫画にした仕事をこなすなど、広がりを見せている。「初めて手がけるものが面白くて楽しい」

 空想しながら面白いネタを生み出していく。「理屈で作るのではなく、テンションを上げて、自分で思わず笑えることを思い浮かべるかです」

 以前、集英社「YOU」で連載された4コマ漫画「四畳半OLのり子」は、OLの日常をギャグにしたもの。OL経験はなく、取材もしたがやはり自分が笑えるネタが生かされている。同連載は00年に単行本化された。

 最近、仕事に対する意欲が増してきた。「沢山の人に読まれたい。読まれるためにどうしたらいいか、精一杯やるだけ」。読んで楽しい気分になる、クスッと笑えるギャグ漫画を目指す。

 ペンネームの林の姓を残したのは、両親が喜んでくれると思ったからだ。今まで、韓国を数度訪れた。若い世代が見て韓国の楽しいと思える部分を漫画にして紹介したいというのも夢の一つだ。

林まつり(はやしまつり)本名・林明恵
 1974年、宮城県生まれ。93年集英社「別冊マーガレット」から漫画家デビュー。現在、集英社「YOU」誌、双葉社「漫画大衆」、リイド社「乱増刊」などで連載。


李節子さん

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李節子さん
東京女子医大助教授

就職の厚い壁に風穴
看護職の国籍撤廃に寄与

 1986年に「看護専門職に国籍条項は必要なし」との通達が国から出された。国籍条項の不条理を問い続けた李さんらの取り組みで、全国3000余の自治体が国籍条項を撤廃した結果、就職の門戸が大きく開いた。

 助産師時代に思ったことは、「人の命に国境はない」ということだ。子どもは親、時代、文化、言語、経済状態など関係なしに生まれてくるということを実感する。94年に日本も「子どもの権利条約」を批准しているが、「親を選べないからこそ子どもの人権は大事だし、親の不利益を得てはならない」と力説する。

 千葉大学卒業後、大阪大学医学部の公衆衛生教室の研究生になった。森永ヒ素ミルクの問題などにメスを入れる人道的な集団と恩師に恵まれる中で同胞の健康課題が取りあげられていないことに気づく。

 90年に東京女子医大に転勤。厚生労働省研究班の研究メンバーになった。在日では稀なケースだ。そこで「在日外国人の母子保健」を調査した。東京大学に移り、博士号を取るよう恩師から勧められた。15年近く思い続けてきたことの集大成として95年に「在日外国人の母子保健統計に関する研究」で博士号を得た。

 博士号取得の基準は、人の役に立つということ。また、この研究が日本で初、世界で初めてのもので、時代のニーズに合致していたということだった。「在日コリアン」の人口動態を在日同胞が知らない現状を憂い、同胞のためになるのならと民団の21世紀委員会のメンバーに加わった。

 人口動態統計というのは、出生、死亡、婚姻、離婚、死産など人間の基本的な統計を表す行政的な資料だが、日本で出版されている「国民衛生の動向」の中から、在日外国人200万人の健康状態がはずされていた。厚生労働省の基礎資料から在日同胞として初めて「在日コリアンの人口動態統計」を作成した。

 その人口動態から李さんが導いた結論は「すべての人には健康になる権利がある」ということだ。名付けて「健康権」。在日は厳しい時代を生きてきたせいか仕事に追われ、刹那的で、自分の健康を考えたり、保つ発想が欠けているのではないか。これまで民族や国籍の視点で生き抜いてきたが、これからは肩の力を抜いて健康を大切にして生活してほしいと思う。

 健康を守っていくのが社会人の務めであり、まず自分の健康、生活習慣を害しているものを直していく。在日同胞が健康を享受し、元気に長生きするためには、民団にもカウンセリングをする機関が必要で、日本の行政とタイアップして、何らかの健康保健医療福祉機関が必要ではないか、と李さんは提言する。

李節子
 1958年、長崎県生まれ。大阪大学医学部公衆衛生学教室研究生の後、東京大学で保健学博士号を取得。日本国際保健医療学会理事。現在、東京女子医科大学大学院看護学研究科助教授。厚生労働省「多民族文化社会における母子の健康に関する研究」研究班分担研究者。


春日王さん

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春日王さん
日本大相撲十両

韓国出身初の関取に
大関昇進目指して日々精進

 韓国出身の春日王は今年5月29日の名古屋場所番付編成会議で、十両に昇進した。在日同胞の横綱がいたことは同胞社会では周知の事実だが、本国出身初の関取誕生だ。と同時に春日山部屋(元幕内・春日富士)創設5年目の快挙でもある。

 親方は「人一倍厳しくしつけた甲斐があった」と話したという。

 サッカーワールドカップ(W杯)までに十両にあがりたいという本人の夢がかなったことになる。W杯と言えば、韓国代表のMFとして活躍した金南一選手とは富平高校時代の同級生で、お互いの健闘を誓った仲だ。

 友人の活躍ぶりを見ながら「せっかく日本に来たのだから、自分も韓日間の架け橋として友好交流に努めたい」と強烈に意識した。

 来日4年で同部屋の筆頭力士になったが、日本に来てから一番辛かったのは、言葉が通じない問題や、似て非なる韓日の文化差異だった。食事の作法からして違う。ましてや日本の国技と言われる相撲の世界は、しきたりや伝統を重んじる社会でもある。別世界での居心地の悪さは想像して余りある。

 さらに、韓国・仁荷大学3年の時に韓国相撲シルムの無差別級王者になったプライドが、日本の相撲を甘く見る態度に表れた。対戦相手の白い布をつかみ、力と力の勝負に徹するシルムとは違い、相撲は立ち会いの駆け引きや丸い土俵の中での技を要求される。

 天狗になっている春日王に勝てない日々が続いた。親方の容赦ない叱責は絶えることがない。実力がなければ歯牙にもかけられない世界。言葉にできない葛藤は、稽古に没頭することでまぎらわした。過去のプライドをかなぐり捨て、ゼロからの再出発である。

 「一日も早く強くなって、オモニを楽にさせてあげたい。日本に呼び寄せたい」。3歳の時にアボジと死別した春日王を、オモニの崔玉順さんが女手一つで育ててくれた。オモニは今も春日王の母校の構内で清掃業に就いている。

 今年初場所では幕下7勝0敗の成績で優勝を飾り、十両昇進後初の7月の名古屋場所では勝ち越した。喜びの報告を兼ねて7月下旬に一時帰国したが、まだ故郷に錦を飾る段階には至っていない。「夢は最低でも大関。目標は魁皇関のような力相撲」と語る春日王関の精進の日々は続く。

 十両になってからまわしの色が黒から白に変わった。これまでの大部屋から個人部屋を与えられ、付き人も2人ついた。上位に上がる本人の努力はもちろん、後輩に稽古をつける立場にもなった。

 9月場所(9月8日〜22日、国技館)では、在日同胞力士の玉力道(趙栄来)との対戦が組まれるだろう。好取組が期待されている。

春日王(かすがおう)本名・金成澤
 1977年、ソウル生まれ。183a、145`。得意は右四つ、寄り、投げ。98年の九州場所が初土俵。元幕内春日富士率いる春日山部屋初の関取で筆頭力士。

(2002.08.15 民団新聞)



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