被差別体験に根ざした
社会的弱者への眼差し
知的障害者というと、どうしても暗いイメージがつきまとう。街角で偶然出会い、思わず目をそらしてしまったという人もいるかもしれない。健常者の性(さが)としてはどうしても哀れみの目を向けがちだ。演劇にするにはあまりにも重たいテーマといえる。日本籍の在日同胞役者・マルセ太郎氏があえてこのタブーに挑戦したのは興味深い。
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「花咲く家の物語」(マルセ太郎作・演出)を東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターで観た。一九九三年以来、七本目の上演。石川県金沢市車町の知的障害者施設「若人の家」を題材にした実話だ。九四年までの十年間この木造二階建てで三十歳前後の六人の青年が共同生活を送っていた。
マルセさんは「若人の家」に密着取材したテレビドキュメンタリーに感動し、芝居にしようと思いつく。台本を書くにあたっては初めから喜劇にすることを念頭に置いていたという。安易な告発仕立てや感傷を排除したいという主張が貫かれているかのようだ。
舞台は、自費で「若人の家」を運営する小杉孝志夫妻と六人の青年の共同生活のなかで起こる“家族”としての交流と葛藤を描く。自由な発想で生きる知的障害者の言動は随所で観客の笑いを誘った。
たとえば青年たちの憧れの的、マドンナが「若人の家」を訪ねてきた時に交わされる蛍を巡っての会話の一場面。
「百合子さん、蛍はどうして光るのでしょうか」「考えたこともなかったわ。ね、勝くんわかる?」「暖房や。夜は寒いんで暖房つけとるんや」
会話はすすみ、死んだらなんに生まれ変わりたいかとなる。春男「わしはライオンがいい。王様や。わしのこといじめられん。いままでわしをいじめた奴、みんな食うてやる」
マルセさんが等身大の障害者像を描こうとしたら結果的に喜劇となった格好だ。本当は、障害者が健常者には無い豊かな個性の持ち主であることを言いたかったに違いない。
一九三三年、大阪猪飼野生まれのマルセさん。高校卒業後の一年まで在日同胞多住地区で育った。当時、ちゃんとした就職先などあるわけはなく、いやいやながら同胞の経営する自転車部品の町工場で働いた。単調なプレス作業の合間にふと魔がさしたのか、プレス機で中三本の指と親指をつぶす。このときから人前で手を示さないのがマルセさんの癖となったという。
一九五四年、新劇俳優を志して上京。芸名の由来でもあるマルセル・マルソーの舞台を見てパントマイムに興味を持つ。このころ家族揃って日本国籍を取得している。マルセさんは当時のことを多く語らないが、やむを得ない事情にせまられてのものだったようだ。
マルセさんは九六年、小杉康子さんが生前書きためていた「若人の家」の十年の歩みをつづった遺稿集「時には昔話を」読み終えて泣いた。この時、衝動的に「若人の家」を芝居にしようと思い立ったのだという。こうした社会的弱者に注ぐ温かい眼差しを思うとき、どうしてもマルセさんの人生遍歴が二重に映ってしまう。(K)
(1998.6.17 民団新聞)
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