民団新聞 MINDAN
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故・孫牧人氏を偲んで

「カスバの女」「木浦の涙」など
日本演歌の源流作った作曲家



80歳の誕生会での故・孫牧人氏

■「木浦の涙」が大ヒット

 日本の演歌の源流をたどっていくと、韓半島に行き着くといわれる。その原型を形作ったのが孫牧人さんだ。都内のホテルに夫人と滞在していた一月九日、心臓疾患のため死去した。八五歳。

 孫さんが日本高等音楽学校在籍中に作曲した「他郷暮らし」(金能人作詞、一九三三年)と、「木浦の涙」(文一石作詞、一九三四年)は、韓国大衆歌謡のはしりとなった記念すべき作品。三拍子の哀調あるメロディーは、古賀政男さん作曲の「影を慕いて」などの作品に大きな影響を与えたといわれる。

 「木浦の涙」との出会いは偶然だった。韓国国内六大都市をテーマに「朝鮮日報」社が一般公募した故郷讃歌のなかから、「木浦のうた」が見事「一等賞」を獲得した。タイトルを「木浦の涙」と改め、木浦出身の女性歌手、李蘭影が歌って大ヒットした。戦後、日本でも菅原都々子の歌で大衆の心をとらえた。「他郷暮らし」は当時活躍中の作詞家、金能人の作品「他郷」にメロディーをつけたもの。テナー歌手の高福寿が歌い、「木浦の涙」に勝るとも劣らない売れ行きを記録した。


■日本でも「カスバの女」大ヒット

 解放後、日本ではビクターやテイチクの専属作曲家となり、「久我山明」の名前で「カスバの女」、司潤吉の名前で「ハワイの夜」などのヒット曲を送り出した。しかし、閉鎖的な日本の芸能界の中にあって、いい詩にはなかなか巡り合えなかったという。韓国国内からは一部で「親日派」と指摘する声もあって、孫さんにとっては不本意な日々が続いたようだ。

 一九五〇年代後半、帰国してからは韓国の著作権協会や作曲家協会を設立し、両協会の初代会長も務めた。日本では東京のアカデミー出版が孫さんの著作権管理をしていた関係で、年末になると毎年のように来日していた。二年前には、東京で行われた新井英一さんのコンサートに訪れた。歌に感動した孫さんが、その場で腕にはめていた金時計をはずし、新井さんにプレゼントする一幕もあった。

 吉屋潤さんを通じて日本で孫さんを紹介され、亡くなる直前まで二十年来の親交を結んできた在日同胞の音楽プロデユーサー、李テツ雨さん(60)は「先生はいつの時代にもその時代、時代の社会性や音楽を映し出す鋭い目をもっていた」と話している。

(1999.01.27 民団新聞)



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