民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
座談会3

既存団体



李敬宰さん

● 姜

 僕ははっきり言えば、国籍のことはあまり興味がない。人間のアイデンティティーの在り方を国籍に求めてきた過去とはもう決別すべきなんだ。むしろ実態として自分は朝鮮人であるという、民族意識を持つための方途にこそ興味がある。例えば民族教育とか。ある意味で結婚だってそうです。家庭内教育だから。それがなかったら韓国人、朝鮮人といえないでしょう。

● 金

 今、具体的に何をするかといったら、やっぱり民族教育ですよ。


「生活者団体」徹底を…ペ

● ペ

 民族教育というところまではそれはもう異論はないんだ。けれども、いま在日をどう生きるかということを議論する上で大事なのは、意外と「民族的に生きるということがもう可能な時代なんですよ、それを表現して生きていける日本の社会の状況はありますよ」ということに当事者がもっと気づくべきだと私は言いたい。

 確かに国籍を担保にしなければ民族的に生きられない時代ではない。そうすると民族的に生きるとはどういうことなのか。「在日」の中からノリマダンやプンムルノリなどいろんな文化運動がでてきたのをとらえて、ある人は座談会で「そういう歌舞音曲の世界は何の力にもなりえない」と言ったけれども、私はそうは思わなかった。あれは「在日」が民族と出会って民族的に生きていくという上では、ものすごく大きな役割を果している。

 ともすると「民族とはこうなんだ」「民族的に生きるとはこうなんだ」みたいな大前提のところで運動されているし、実践されているみたいなところがあるんだけれども。もう一度、民族的に生きるとはどういうことなのかをもっと幅広く考えてあげることが大事なのではないだろうか。

▼ 司会

 "民族的に生きる時代になった"というのは全国的レベルで言えると思うか。

● ペ

 川崎の地とかじゃなくて、全国レベルで民族的に生きることができる時代になったと思う。

● 金

 それは差別は昔と比べたら確実に減っているでしょう。そういう意味で全国的にやる気になったらやれるという状況にはある。

● ペ

 本名を名乗っていじめられるということは川崎の地でも確かにあるんだけれども、一方で本名を"ああそうですか"と受け止める雰囲気も日本社会には出てきている。本名を名乗って当たり前に生きていける、それを許容していくという社会が日本の中に完全ではないけれどある。韓国のサムルノリやカヤグムを楽しんでいこうとする日本人がいるんだよ。そういう社会がある。そこのところにわれわれはもっと気が付くべきじゃないか。

● 金

 ところが、現実にはそうできない状況がここ数十年続いてきたから。そこで怖がってパーソナリティーをつくってしまった層が、いま子育てしているんであって…。

▼ 司会

 そういった意味では地域の中でマダンなどのイベントはものすごく効果がある?

● ペ

 ありますよ。結論的に言って、民族的に生きるということはそんなに難しいことではなくて、いろんな生き方をしていくことがもう可能な時代になっているんですよ。そんな怖がることはない。


受け皿作り直さねば…李

● 李

 昔みたいに民族的アイデンティティーや国籍を強く求められていた時代と違って、生き方の選択肢も広がってきているということでしょう。運動体もきちんとそれを受け止め、受け皿そのものを作り直さないとどんどん逃がしちゃいますよ。

 うちの組織でもね、日本国籍を持つ子どもを産んだ朝鮮人と日本人の夫婦に言うんですよ。「もう君たちの時代がやってきているんだ。ましてや二十一世紀はそういう時代なんだ。それが『在日』の側に日本国籍の意味あいをもう一回問い直していくインパクトになりうるんだ」と。


姜 誠さん

<本名を名乗る運動はどうか>

▼ 司会

 韓国籍を持ちながら民族的なものとは疎遠な環境のなかで育ってきた「在日」が今後、実態あるものとしてアピールしていくために、民団として本名を名乗る運動を提起するとしたらどうか。

● ペ

 民団はやるべきだと思っている。一部の商銀を見る限り、本名を名乗っている職員の一方で、通称名を使っている例も見受けられる。本名の名札をつけましょうといった運動はやる意味がある。ただし、やろうとしたことを教条化して"それをやらないやつはだめだ"みたいな切り方だけはしないでほしい。

● 李

 教条的にしなかったら通名、どんどん増えるよ。民団はすべきですよ。まず、一世が率先して。

● 金

 名前に関しては厳然たる同化の歴史がある。しょせんは差別で創られたもの。「在日」はその差別を克服するためにも本名を使うべきだ。しかし、それは自らやるしかないんであって、それを上から強要したからといってできないだろう。

▼ 司会

 国籍は韓国でも、日常生活では日本名を使っている人たちが組織を運営していくのは不思議じゃないのか。もう一度原点に立ち戻って本名で生きましょうという雰囲気を各地でつくっていかないと。

● 姜

 ぼくの子どもは朝鮮学校へ行っているんですよ。イデオロギー教育については考えるところも多かったんですが、小さいときに"自分は何者か"知ってほしいということで行かせている。それさえ確立すれば「あとはおまえの好きなところで教育を受けろよ」と言い聞かせている。日本の高校を出て韓国の大学へ行ってもいいし―。「三つの教育」を受けられると、かえって喜んでいる。

 僕自身が学生を卒業するまで名前を名乗れなかったから、子どもたちには名前を名乗らせたいという気持ちがものすごくあった。僕思うのは、孤立していては名前名乗れないんですよ。たとえ、そういう気持ちがあったとしても。

 子どもを学校に送ってみて初めて分かったことなんですが、ネットワークができて、そこが在日としての"地域"になる。親たちも、子どもたちの生き様を逆に見せられて、本名を名乗れるようになってくる。だから、ただ単に名乗る、名乗らないじゃなくてそこに"地域"という担保がないと…。

● 金

 今の話は本名を名乗り、民族的に生きられる環境づくりの問題なんですよ。"地域"としての民闘連もあるし、朝鮮学校もある。しかし、そういう環境を担保するところがへばってきて、総体として弱まってきた。

 代わりに個人のレベルで目覚めていく分野は広がっていると思う。昔と比べて差別もそれほど厳しくなくなってきている。「在日」の生活レベルもアップしてきたし。


<参政権と民族教育は両輪>

● 姜

 民団にとっては参政権と民族教育は車の両輪だと思う。なのに民族教育という片輪がガタッと落ちているのではないか。そういうものにもっと力をいれていかないと、名前を名乗る運動というものは難しいんじゃないか。

▼ 司会

 既存団体と各地域に根付いた市民運動を接着していくためにはどうしたらいいか。

● 金

 各地に根付いた市民運動というけれど、現実は何だかんだと言っても全国ネットを持っていて人を集められるのは民団、総連なんだ。

 市民運動のあるところは大阪、川崎といったごく一部なんであって、理念的にはすぐれたものがあっても、全国運動にはまだなっていない。結局は民団、総連をどう変えていけば、同胞社会の横のつながりをち密なものにできるかということになってくる。


<NPO法人目指すべき>

● ペ

 民団、総連に求められているのはまず「脱政治団体化」だ。私にはどうしても民族団体イコール政治団体というイメージが強いから、民団が「生活者団体」というなら、より色濃く転換していくべきだ。民族団体はもともと自治団体として出発したんだから、自治団体以上に、親睦団体みたいな発想で考えたらいい。そうしたらもっと柔らかな発想が出てくる。

● 金

 地域社会で既成の組織をどう考えていくか。日本のNPO法団体になるべきだ。

● ペ

 民団神奈川県本部は法人として認められたわけでしょう。その発想は面白いな、いいなと思った。

● 姜

 朝鮮総連の同胞たちの間でもコーポ(生活協同組合)をつくろうという話が出ている。生活者の出費で理事を決め、事業を行っていく。なかなかうまくはいかないだろうが、でも考えとしては一つのヒントになるかなという気がする。

● 金

 民団、総連が五十三年間の間に培ってきた財産を、二世、三世が今後の五十年間の「在日」社会のために使える財産として体系化できるか。それに絞って地域社会に根付いたNP0法人をどう作っていくのか。それをして初めて民団、総連が全国的なネットワーク組織として生き残ることができるんだと思う。

(1999.05.05 民団新聞)



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