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親子2代奮闘、蒙古辞書編纂へ

横須賀の在日同胞



■東アジアの文化交流に夢はせ
 韓日両国語対訳めざす

 【神奈川】今は亡き父親の託した東アジアの文化交流という夢を受け継いだ在日韓国人二世が、モンゴル語、韓国語、日本語の三カ国語対訳辞書の編さんを目指している。手始めにまず現代モンゴル語の基本文法書の原典をもとに日本語訳に着手したところ。翻訳にあたっては中学生の長男も協力している。祖父から父へ、父から子へ親子三代にまたがる挑戦となりそうだ。

 現代モンゴル語の文法書を日本語に翻訳する作業に取り組んでいるのは横須賀市内の権國祐さん(56)一家。原典は百六十ページ余りだが、七歳でフフホト市蒙古族学校で学んだ長男義文君(12)の助けを借りながらすでに二十ページ以上を消化した。

 左にモンゴル語、右は日本語の対訳形式。内モンゴル大学言語学研究所の元所長が監修に当たっている。印刷は自費出版のため、費用の安い中国で行う。翻訳出版の段階では、延辺で朝鮮族の助けを借り、日本語の部分を韓国語に置き換えたものも別に編集する方針だ。同様に二千から三千語ぐらいのモンゴル語基本単語集の編さんも考えているという。

 権さんとモンゴル語との本格的な関わりは67年、東京外大モンゴル語学科に入学したときから。もともと古事記、日本書紀などに関心があり「古代の日本語をやるには朝鮮語をやるしかない」との思いがあった。しかし当時、朝鮮語学科は大阪外大にしかなく、同じアルタイ系ということでモンゴル語から先に勉強することにした。

 大学ではモンゴル語をネイテイブに話す中国籍の講師の影響もあり、政治的思惑を超えたところで東アジアの学術文化交流ができないものかと夢見るようになる。これは「イデオロギーの争いはやめて民族はひとつにならなければ」と常々話していた父親の考えかたからの影響もあった。このときから権さんは、モンゴル語を学びたくとも辞書はおろか文法書もない現状に、「卒業したら作ろう」と心に決めていた。

 不慮の交通事故で大学を中退した権さんは、転地療養先の仙台で印刷会社に就職した。たとえ遠回りだろうとも、活版印刷から始めさらにタイプ印刷の技術も身につけた。ワープロやパソコンの技術も専門学校で学んだ。すべては日本とモンゴル、モンゴルと韓国に関わる辞書を編さんするという目標があったからこそといえよう。

 いまようやく文法書の翻訳に着手したばかり。本格的な辞書の編さんにあたっては基本設計を権さんが描き、一つひとつの語いの分析は義文君がモンゴル語や中国語の文献にあたる。さらに内モンゴル大学の先生の指導も仰ぐ。データ入力はやはり蒙古族学校で学びモンゴル語を聞き分けられる娘の文栄さん(14)の担当と決めてある。唯一の心配ごとは財団からの助成を得られるか否か。

 権さんは「条件整備はできた。私一代で無理でも、息子の代で完成してくれるでしょう」と期待をかけている。

(1999.05.12 民団新聞)



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