民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
光復節特集・特別インタビュー

各分野で活躍する在日2・3世



■福祉派・康秀峰さん
(コリアボランティア協会代表)

差別に「愛」で奉仕
大阪で「共生」のモデル作りへ

 康秀峰さん(51)は色紙に好んで「愛」の一文字を書く。差別という日本社会の「目に見えない鎖」に打ち勝つには、「見えない愛の奉仕」しかないというのが信念だ。

 「コリアボランティア協会」は生野区に拠点を置き、高齢者や障害者を対象に無償で介護や自立支援のための活動を続けている。名前は「コリア」でも、ボランティアに出向く先の約八割は日本人。阪神淡路大震災発生後は活動の範囲も生野区内から被災地へと広がった。いまでも週3回はスタッフが長田区の仮設住宅を訪問し、お年寄りらの心のケアに努めている。

 ボランティアに目覚めたのは18歳ぐらいのとき。在日同胞への偏見に、「差別している日本人の心を変えていかなければならない」との思いからだった。

 高校卒業後に上京。東京の足立区でヘップの仕事に就く傍ら、少年院、孤児院を出て社会から見放された少年たち3人を引き取り、三畳一間で生活を共にした。多いときは一部屋で6、6人が寝起きしたことも。仕事が終われば近所の高齢者宅を訪ねて介護した。給料1万7000円のうち1万円は仕送りに、残りはボランティアに費やした。

 3年という短い期間だったが、康さんの将来を決定づけるには十分な動機付けだった。大阪に戻ってからは「自分の人生を福祉にかける」と決意した。二十歳になっていた。

 「日本人と対立する関係ではなく、違いを認めあって仲良く生きるにはボランティアしかない」。生野区は「コリアンの首都」。生野区で「共生」のモデルを作り出せれば、日本全国に広げることができるのではないかと考えたという。

 小学校2年生の時、父親が家を出たため、母親の手一つで育てられた。乳母車をリヤカー代わりに着物の切れ端を集め生活を支える母親の後ろ姿を見て育った康さんは、足に障害を持つ弟のためにトイレや入浴の世話をした。康さんはまだ七歳のときのこと。

 介護にあたっては、弟から鉄板の入った足でよく蹴られたが、痛みの苦しさはこの弟から学んだ。また、目の不自由な高齢の大家さんの話し相手になってあげ、五円のお小遣いをもらったこともある。寂しさからくる苦しさを学んだのはこのお婆ちゃんからだ。

 十六歳でリウマチにかかりハンディを持つ苦しみは身にしみている。長年の準備期間をかけて四十六歳で「コリアボランテイア協会」を旗揚げした。事務所は在日同胞の篤志家が無償で貸与してくれた。

 現在、同協会には全国で約5000人がボランティアとして登録している。専従スタッフは7人。規模としては日本で一番大きい。しかし、活動の幅が広がれば広がるほど運営費がかさむのがジレンマ。

 震災の炊き出しでは1年で五百万円の貯金を取り崩し、奥さんが家の購入資金として確保しておいた千五百万円も今は底をついてしまった。康さんは「愛に向かって死ぬ心境」と意に介していない。

◎プロフィル

 1948年、生野区生まれ。大阪朝鮮高級学校卒。書家としても知られ、高麗書道連盟会長を務める。薬剤師で在日同胞2世の妻(48)と長男(6)。カンパのあて先は同協会名義で郵便振替「00920・6・29408」。電話は06(6717)7301まで。


■格闘派・前田日明(高日明)
(リングスの代表)

在日同胞の団結を
南北に発言力持たなければ

 格闘技界の雄、前田日明さん(40)は、98年の引退を契機に在日同胞であることを明かすようになった。直接のきっかけは、帰化同胞の新井将敬議員の自殺だ。

 彼の死をいたたまれない思いで受けとめた前田さんにとって、「日本人以上に日本人を演じようとしていた」という中傷に、「自分たちが思っている以上に、日本社会は在日を理解していない」と痛感した。

 所属事務所の新日本プロレスの勧めもあって、二十五歳の時に帰化をした。周囲では公然の事実だったが、故新井議員の事件も含め、出自について影であれこれ言われるよりも自分の口ではっきりさせたかった。「在日は本国の人間よりも古い。日系一世がブラジルに渡った頃の日本人の思考方式で生活しているのと同様に、好む好まないにかかわらず、無意識のうちに昔の儒教理念に基づいた道徳の上で育てられた」。

 そういう家庭環境で育まれた在日同胞の精神や誠実さが、日本の昔の道徳観念に通じるのであり、決して日本人になりきろうとしたのではないと強調する。

 三世の前田さんにとって、一世、二世が自分自身の力でがむしゃらに生きてきた生き様は、共感を通り越して愛おしいとさえ思う。植民地支配を受けた同胞は、日本の国のために徴兵されたり、軍属となって一緒に戦争を体験した。戦後は国籍選択の余地もなく、元の国籍に戻された。

 そういう在日同胞に対しては、「日本人だ韓国人だ」と言うのではなく、参政権を与えればいいと思っている。「親戚の中にはすでに五世も誕生しているが、何世代たっても外国人というのはおかしい。日本人になるために、わずらわしい帰化申請をしなくてはならないというのもどうか」と問題提起する。

 民族名は高日明。母方の祖父が外孫の自分だけにつけてくれた日明(イルミョン)を「あきら」と読ませている。「家族とのつながりを大事にしたいからだ」と言う。

 中学3年の時に、親族訪問で韓国に初めて行った。在米韓国人には英語で対応する税関職員が、在日同胞の自分には韓国語で質問を浴びせ、言葉がわからないと「親はどういう教育をしてきたのか」となじった。韓国に対する思いが急速に冷めた一瞬だ。高校生の時には、父の兄に当たる伯父が北韓に帰って行った。「祖国建設のため」と希望に燃えた帰還だったが、いまだに行方が知れない。

 韓国では在日をパンチョッパリと差別する人がいる。北韓では帰還同胞が殺されたり、収容所送りになっている。中朝国境では生きるために物乞いをする子どもたちが、弾圧されている。それに対して「在日は怒りの声と救援の手を差し伸べないのか」。

 「在日は一つに固まり、日本政府に対してだけでなく、北韓に対しても韓国に対してもいいものはいい、悪いものは悪いと発言する力を持たなくてはならない」。在日同胞の団結を強く求めている。

◎プロフィル

 1959年、大阪市大正区生まれの在日3世。高校在学中に空手を始める。77年にスカウトされて、新日本プロレスに入団。88年に「真の格闘技」をめざしたUWFを旗揚げし、91年にリングスを設立、代表を務める一方、「月刊武道通信」の編集長の顔もあわせ持つ。


■人権派・朴 一さん
(大阪市立大学助教授)

 関西のテレビ、ラジオで「在日」問題や韓国・朝鮮問題を語り、新聞にも定期的に寄稿している。斬新な発想と独自の語り口、天性のユーモア。朴一さん(43)自ら「人権行脚」と呼ぶ学校、企業での講演活動は、この10年間で300カ所を超えたという。

 朴さんにとって「朝鮮半島問題への正しい理解を促す広報活動と、在日外国人の人権尊重に向けた実践活動の展開」はコインの裏表の関係にある。基本的な視点は「東アジアの共生システム」をどうつくるか。

 一つのつながりは日韓関係だという。そしてここに戦後処理問題をからめて韓国語で発表したのが「アジアに対する日本の援助と戦後補償」(1998年)と題する論文だった。アジアからの真の信頼を勝ち得るには戦後補償をきっちりするべきだと主張した。

 一方、「在日コリアン」との新しい共生システムづくりについては、参政権問題で活発な論陣を張っている。朝日新聞社発刊のオピニオン雑誌『論座』(99年5月号)に発表した「国会を揺さぶる在日コリアンの参政権問題」では、「日本こそ韓国に先んじて相互主義のハードルを乗り越え『内なる国際化』の扉を開けよ」と持論を述べた。

 朴さんが民族の違いを超えて多文化共生を唱えるようになったのは、自らの生き様と無関係ではない。

 小学3年生の時、父親から日本名以外に本当の名前があることを知らされる。しかし、すぐに民族名を使う勇気はなかった。同じクラスにいた級友が「チョーセン、帰れ」と、よくいじめられるのを目の当たりにしていたからだ。

 しかし、いつまでも隠し通せるものではない。家にかかっていた本名の表札を見つけた級友からもう一度「おまえ何人や」と問いつめられる。朴さんはせっぱ詰まって、「キャベジン」と答えた。ギャグで窮地を脱したものの「僕は韓国人」と答えられなかった事実だけは、心の中で重石となって残った。

 「こんな悔しい思いを今の外国籍の子どもたちにさせたくない」―。朴さんの民族活動の原点がここにある。在日外国人の人権尊重に向けた実践活動はその現れだ。

 自治体に在日外国人の意見を反映させていくための活動にはとりわけ熱心だ。

 手がかりとなったのが94年に伊丹市の在日外国人教育方針策定に携わったことだ。さらに「教育方針」を実のあるものにするため、翌年には『在日外国人教育ハンドブック』を作った。さらに伊丹北中学をモデル校にした多文化教育プログラムを実践、総仕上げとして伊丹市に住む全外国人を対象としたアンケート調査にも関わった。

 伊丹市は朴さんの住居が近いことから関わったが、職場のある大阪市内でも鶴橋地域の多文化共生の街づくりに参加した。

 朴さんは日本の外でも内でも他の国、民族との共生が模索されていると強調する。「愛する日本だからこそ、アジアの人にも住みやすい国にしたい」。

◎プロフィル

 1956年生まれ。大阪市立大学経済学部助教授。日本平和学会理事、編集委員歴任。アジア政経学会評議員、在日朝鮮人研究会常任幹事。主な著書に『韓国NIES化の苦悩ー経済開発と民主化のジレンマ』『民族差別撤廃運動1965―84年』など。

(1999.08.15 民団新聞)



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