| 本紙のインタビューに答える、黄長Y・元北韓労働党書記 |
□■閉ざされた暗黒社会■□
■金正日は閉鎖された社会の中で、強大な権力をもって反対する人間をどんどん粛清していく。一般の人々は実像と虚像とを見抜いているのですか。それとも「偉大な」指導者として仰いでいるのですか。
黄 見抜いている人はとても少ないと思います。封建時代の連座制があるでしょう。過ちを犯した人に同情するような人は、一括的に統制区域に送ってしまう。反対運動をした人、同情した周囲の人まで送ってしまう。
■日本でも飢餓の状況を映像で見て、何とかしなければと思う同胞が多いのですが、食糧支援が軍部に回されて軍事力に結びつくのではないかといった不安と葛藤があるのですが、実際に飢えている人々の口に食糧が入るのでしょうか。
黄 もちろん人々には届かないですよ。軍隊とか特権階級に入るけれども、それでも人民のためにはなります。それだけ略奪が少なくなるから。支援は間接的には、やはり人民に入ると考えて差し支えないです。
同胞がコメや食糧を送っているということを知らせることが大切な間題ですよ。例えば今、南朝鮮が肥料を送ってやるでしょう。それが「労働新聞」にも掲載されればいいですよ。ところが、彼らは全然国内では発表しない。
□■遮断された外部情報■□
96年に韓国にセン水艦が派遣されたが、その時にも「すまない」と言ったけれども、北では誰もそのことを知らないです。対外放送で言っただけで、国内では知らないです。コメを十五万トンもらったことも知らないし、知っているのは対南工作部と党中央委員会の人だけです。
■統制された社会に情報が入らないんですね。
黄 外部からの情報は完全に遮断されているから、多くの人は「南朝鮮は人間地獄。そのために学生らが立ち上がる」という考えです。一つの尺度をもって自分で自主的に考える人は、数えるくらいです。
■自主的に考える教育システムができていない?
黄 できていないですよ。託児所にいる小さい時から金日成と金正日を偶像化する教育ばかりしているから。
■先生の本の中には、95年に五十万人、96年に百万人というおびただしい餓死者の数が示されていますが、そういう状況は庶民感覚でわかりそうなものですが。
黄 95年の話だけれども、軍需工場の労働者が約五十万人いました。九力月、食事を配給することができず、半分以上が飢え死に直前になって工場に出られない。その中では最も技術水準が高く「宝」だともてはやされた人が2000人飢え死にしたと、担当書記が私に話しました。
その担当書記が労働者の家庭を訪問したら、骨ばかり残っている家族たちが横たわっていて、書記が入って来ると恐縮して「書記同志、金正日将軍は健康ですか。どうか近くでよく世話して下さい。守って下さい」と言いました。
もちろん軍需工場の労働者たちは、出身成分のいい人たちを選んで配置したということはあるけれども、とにかく一般的には金正日のこと(正体)は知っていないだろう。
自然災害のため、帝国主義者たちが閉鎖政策をとるためにこうなったと大部分はそう考えている。
□■食糧問題は一旦小康状態■□
■人民を食べさせることができない指導者はダメだと考えないものですか。
黄 私がいる時にもそうだったけれども、とにかくこれでは生きていけない。早く何か結論が出なければならない。南から攻め上がって来てもいいし、北から攻めて行ってもいいし、とにかく戦争が起こったほうがいいと。
それは確かにそうでした。私がいた96年までほとんどすべての住民たちがそう考えていました。
食糧問題が最もきつかったのが、97年のように思います。私が組織部に聞いたところでは、97年には何も対策がなければ、二百万が飢え死にすると話していましたから。
98年からは相当改善され、穀物が約四百万トン生産された。96年には二百十万トンでした。私が直接組織部で聞いた話です。援助米もたくさん入ってきたために食糧問題が相当解決された。
□■水面下で進む粛正■□
ところが、最近、北朝鮮を回ってきた人の話によれば、今はちょっと違ってきたようです。以前はとにかく戦争が起きなければダメだと言っていたのが、この頃は何とかして金正日を転覆させなければダメだと、そういうふうに意識が変わってきたそうです。
だから、その間に金正日が粛清を乱暴に行いました。特に、私たちがここに亡命してからは、私たちの家族、親戚、それから影響下にある学者、働き手たちだけ犠牲になったと思います。それでも大きな数です。その粛清が終わり、「これは思想に問題がある。思想を検討しなければならない」として、3回に分けて全面的に思想点検を行い、血の海にしてしまったそうです。
■三次にわたる粛清でどれくらいの人が犠牲になったのでしょうか。
黄 彼らの話では何十万という人が血を流したということです。一般の大衆は初めは私たちに同情し、いいことを言っていましたが、この頃は「これだけの犠牲を払って南朝鮮に行って今何をしているのか」とかえって私たちを恨むような話が今相当起こっていると聞きました。
(1999.08.18 民団新聞)
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