民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<2>

■日本人拉致問題■



北韓拉致家族の現状復帰を求めて
街頭に立つ横田めぐみさんの両親

現状復帰「最優先課題」に
小渕首相が約束

 1977年11月15日、新潟市立寄居中学1年生の横田めぐみさん(当時13歳)は、中学校から始めたバドミントンの部活を終え、午後6時過ぎに2人の女子生徒と一緒に下校した。新人戦出場後に新潟市の強化選手に選ばれ、練習にも力が入っていたようだと父のジさんは言う。

 さよならのあいさつをした後でめぐみさんは自宅へ向かったが、途中で消息を絶った。神隠しという言葉があるが、まさに誰にも理由がわからないまま忽然と消えたのである。午後6時半頃と推定されている。

 めぐみさんは事件の前年、76年9月1日に広島から新潟に転校してきた。小学6年生の2学期の始業式の日だった。7カ月後の卒業文集に載せた「将来の私」では、「能力と夢と現実のつながった将来にしたい」と、将来をしっかり見据えた内容を綴っていた。

 めぐみさんの日常生活と将来の夢を打ち砕き、仲むつまじく暮らしていた家族を、突然有無を言わせず引き裂いたのは誰の仕業なのか。地元では当初から「北朝鮮に連れていかれた」という噂が広まっていた。

 噂が現実のものになったのは、事件から20年目の97年1月のことだ。横田さん一家を悲しみのどん底に突き落としたのは、やはり北韓だった。韓国に亡命した北韓の元工作員が、めぐみさんとほぼ断定できる証言を行ったのである。

 いわく「拉致された当初は泣き続けていた。朝鮮語を勉強したらお母さんに会わせてあげると言われ、一生懸命頑張って習得した。にもかかわらず、5年後になっても願いは聞き入られなかった。そのショックで精神に破綻をきたし入院した」。元工作員がめぐみさんのことを知ったのは、工作員専用の病院だという。

北韓に拉致された横田めぐみさん

 その後、事件は同年2月3日の国会で取り上げられるとともに、マスコミにも飛び火し、国際世論を動かすことになった。拉致被害者の八家族は3月25日、「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会を発足させ、ジさんが会長を引き受けた。実名を出すことの葛藤はもちろんあったが、20年近くも安否が確認できなかったもどかしさ、何もできずに無為に時間だけ過ぎていく状態から抜け出し、声をあげていく悲壮な覚悟を決めた。

 会では小渕外相(当時)に問題解決を求めたり、街頭での署名活動など、被害者の現状復帰に向けて積極的に活動を行ってきた。今年3月には小渕首相が「国政の最優先課題」に取り組むと約束。5月の国民大集会には1900人余りがつめかけ、韓国の被害者家族との連帯も図った。首相はクリントン大統領や金大中大統領にも解決を要請したという。

 しかし、今年で22年になろうとしているのに、未だにめぐみさんは家族の元には帰って来ることができずにいる。「はろばろと睦み移りし雪の街に娘を失いて海鳴り哀し」。早紀江さんがめぐみさんを想い詠んだ詩だ。

 「あなたの家族が突然いなくなったら、あなたはどうしますか」。

 「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」への問い合わせは、電話、FAXともに03(3946)5780へ。

(1999.08.25 民団新聞)



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