民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<5>

北送問題−2 張明秀氏に聞く(中)



元総連新潟副委員長に聞く(中)

■総連告発を責務に

 日本に戻る日、船が出る直前になって面会申請を出していた帰国同胞とようやく会えた。幼少時代に新潟の田舎で親戚づきあいをしていたその人から帰国者の実態を詳しく知る。

 「農村に配置されたが、日本で考えていたのと全然違う貧しさだった。おかずを作るのではなく、味噌があれば、それがおかずになる。人民は親戚や党幹部ら自分たちだけで固まり、帰国者は何か欲しければ、彼らの欲しがる物と物々交換するしかない」。

 総連の最高幹部にしても同様だった。弟の義父に当たる朴甲龍氏は総連大阪府本部の委員長をはじめ、中央本部監査委員会の委員長を務めた人だ。副議長待遇の大物である。弟が結婚式も挙げていないので、犬料理専門の料亭で宴会が開かれることになった。朴氏を主賓に上席に座らせ、自ら接待役を買って出た。

 ところが、宴会が始まる前にやって来た地域の党秘書や弟の職場の幹部らが、席順を見るなり朴氏を末席に追いやり、張さんを上席に座らせて「先生、先生」とへつらう有り様だ。総連の大先輩で一番の年長者が粗末に扱われるのを直視して、はらわたが煮えくり返るほど怒りを覚えた。


■帰国者の窮状、雑誌に発表

 話を少し戻そう。75年に張さんは帰国事業の担当からはずされたが、それは総連中央本部の社会局担当の〓在弼副議長が、その年に国際会議の帰りに北で足止めをくらったからだ。張さんは常々「総連は在日同胞の権利擁護のための団体だ」と主張し、それを支持したのが〓副議長だった。

 しかし、社会局は韓国のスパイ救援運動に走り、総連では組織をあげて金正日の理論思想運動が展開されていた。さらに、民団が始めた総連同胞を対象にした母国訪問団事業に対抗して、権利擁護運動で全面的に闘うべきだとの主張も後ろ盾を失い、当時在籍していた社会局を離れることになった。北に足止めされる幹部が相次ぐ事態の中で、自分も足止めされれば、帰国者と同じ運命に身を置くことができるし、それも責任の取りようになると、覚悟の上での80年の訪問だった。

 日本に戻ってからは、帰国者に対する責任がずっと頭を離れない。行方不明の問題が方々で語られ始めた。親友の弟も北で消息がわからない。「肉親が声をあげなくては」と思っていた矢先の89年2月、関西のあるオモニが大騒ぎして行方知れずの弟を捜しだし、救出したという話を聞いた。自分はどうするか。

 同年4月、作家の李恢成氏に相談し、雑誌『民涛』誌上で自分の責任と帰国者の実態を明らかにする約束を取りつけた。総連の機関紙「朝鮮新報」からは資料が集められず、朝鮮奨学会や国会図書館でそろえた。が、7月に李氏から「できない」と電話がかかる。

 北には兄弟とその家族がいる。自分の家族も商工会、「朝鮮新報」、朝銀と、みんな総連の機関に属している。帰国者問題を告発すれば、北でも総連でもタダではおかないし、家族崩壊にもなる。それでも最初で最後の仕事と腹をくくった。再度、李氏から連絡で掲載が決まった。

 新潟出身で東北大学の大学院生だったソウ浩平氏が行方不明になり、日本人妻の小池秀子さんが再婚を強要されていたことや行方不明の事態に対する総連組織の責任問題、韓徳銖や自身を含めた幹部の責任を追及したが、雑誌が売り出された12月には、東ヨーロッパの崩壊やチャウシェスクの失脚が重なったためか、反応は芳しくなかった。

(1999.09.29 民団新聞)



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