民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<8>

北送事業−元「迎接委員」に聞く(下)



■資産収奪され、放遂も
 狂った第2の人生

 「北送事業」が始まった1959年から60年初頭の北韓は、政治、経済など、あらゆる面で一番危ない時期だった、と呉さんは振り返る。6・25動乱が終わった後の「三カ年計画」は、ソ連や中国、東ヨーロッパのいろいろな国から無償援助を受けることができたが、その後の「第一次五カ年計画」は、2年くらいでそれらの国からの無償援助が閉ざされ、金も何もない北韓は2年半で計画を断ち切るしかなかった。

 経済的などん底状態に加え、政治的にも金日成による内部粛清の嵐が吹き荒れた。東ヨーロッパではハンガリーをはじめ、ポーランド、ルーマニアで反共運動が起こった。その時期に北韓は「帰国同胞」を迎えなくてはならなかったのである。準備も何もあったものではない。

 とりあえずアパートと職場を与え、食糧を配給した。生きるには支障がないと思ったが、「帰国同胞」には受け入れられなかった。不平、不満が募る状況に、金日成も「強く取り締まらなければならない」と命令を下し、スパイ罪をかぶせてどこかに連れて行くようにした。何の罪もない人たちが国際スパイに陥れられたり、その〓が労働党や内閣の中に流れていく。幹部らは「日本政府がスパイを混ぜて送った。南朝鮮の工作員が入り込んでいる」と何件も発表し、北の住民はそれをそのまま信じた。


■荷物押収の手口

 迎接委員の呉さんは主に、「帰国同胞」の荷物の中に「南朝鮮」から何か病原菌が持ち込まれているかどうかを調べる役割だったが、それは表向きの理由で実は荷物を押収する役目だった。「自動車、オートバイは押収するのに苦労はしなかった」と言う。最初は自由に使わせたが、2年もすればガソリンを制限し、ついには配給をストップして使えなくしたからだ。ある地方本部の副委員長を務めていた総連幹部は「大物」ということで農林省の副局長として配属されたが、持って帰った乗用車をその手口で労働党に強制的に寄付させられた。残ったのは「社会主義建設に貢献した」との大拍手だけである。

 日本で一つの工場を経営していた在日同胞は、機械から原料まで持ち込み、当初は労働党の関与もなく支配人として第二の人生を始めた。ところが、何カ月後に労働党から副支配人が派遣され、「資本主義的思想が全然抜けていない。社会主義原則に違反する」と批判され、「思想改造の勉強をして来い」と送り出されたきり帰って来なかった。工場が乗っ取られたわけだ。日本製のラジオを持ち込んだ同胞は「日本や南朝鮮の放送を聴いている」とスパイ罪をでっち上げられ、行方不明になったり、強制収容所送りになった。


■朝から晩まで監視

 「帰国同胞」の住居の周囲には、労働党員が取り囲んで住み、朝から晩まで監視した。北の住民からすれば派手な服装を「腐った資本主義社会の匂いがする」とからかわれ、服も着れないような圧力が加わる。「帰国同胞」は短ければ一、2年で北の生活に耐えきれなくなり、服などを売って物々交換でやっと白米を手に入れる有り様だ。

 日本からの持ち物が底をついた「帰国同胞」に対して、「北の住民の低い生活レベルに合わせなくてはならない」と金日成が言ったのは有名な話だ。日本から仕送りを受けられる同胞にしても、そのお金の大部分は中間で搾取されていると呉さんは断言する。

 このほか、在日同胞とともに北に渡った日本人妻のケースでは、咸鏡南道の検徳鉱山事件がある。そこには多くの「帰国同胞」が配置されていた。63年頃、金日成が現地指導に訪れると知った日本人妻二十数人が、「1年以内に必ず日本に里帰りさせる」という当初の約束を、一度だけでも実現して欲しいと涙ながらに直訴した。「そんなことは何でもない」と笑いながら金日成は了承し、日本人妻もそれを信じた。

 ところが、金日成は平壌に戻ると内閣の非常会議を開き、「けしからん。二度とこんな事件を起こすな」と激怒し、社会安全省に命令してその日本人妻全員をどこかに連れて行った。その後の消息は知れない。その〓を労働党は「帰国同胞」の中に故意に流し、里帰りを封じたのである。

 「北送事業」はこのように在日同胞はおろか日本人妻の人生さえ完全に狂わせていった。

(1999.10.20 民団新聞)



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