民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<9>

元帰国協力会・事務局長に聞く−上



□■北送事業■□

独裁的な労働党幹部
共産主義以前の官僚主義も

 現在、新潟で「横田めぐみさん等被拉致日本人救出の会」の会長を務める小島晴則さん(68)は、日本共産党の党員として「北送事業」に関わった日本人の一人だ。「帰国」第一船が新潟港を出港したのは1959年12月だが、同年8月に「帰国協力会」の事務局に入り、以来10年間で150回余、約九万人を北に向けて送り出した。小島さんの話を2回に分けて掲載する。


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 4人の共産党員で構成していた新潟県帰国協力会と日朝協会事務局は、帰国協力と日朝友好運動を取り仕切る"要"であり、小島さんはその事務局長だった。「北朝鮮の社会主義はすばらしいと信じ、共産党員として在日朝鮮人を社会主義国に送り出すことを最も光栄な任務だと思っていた」と振り返る。

 朝鮮労働党と親密な関係にあった日本共産党はその立場で「帰国事業」を推進した。「地上の楽園」の社会主義、北朝鮮とは文字通り「蜜月時代」で、ほかの政党が人道的立場から「帰国」を言うのに対して、より積極的に社会主義を宣伝し、朝鮮との結びつきを強化する立場を取った。かつての植民地支配により犠牲者となった朝鮮人の立場を清算する意味合いもあった。

 表向きは「帰国協力会」だが、実は朝鮮総連(総連)と共産党が相談して作った御用団体のようなものだった。「協力会」には保守系の議員を含め社会党、婦人団体、労働団体、青年団体などあらゆる団体を網羅した。お膳立ては総連が「飲ます喰わす」の手法で整え、幹事長は自民党の県会議員、代表には元新潟市長が就任した。

 「帰国者」は新潟の日本赤十字センターに集まり、三泊4日を過ごす。北朝鮮のマークをつけたソ連船トボリスク号やクリリオン号が新潟港に入港すると、総連中央本部の韓徳銖議長ら幹部が総出で出迎え、「帰国者」を見送るのが常だった。


■「帰国者」からの手紙

 「帰国者」が3年目の半ばにして激減すると、小島さんらの耳にも「北朝鮮は日本で聞いていたのと実際は違うという手紙が届いているらしい」との話が届くようになった。「あれほど歓迎して送り出したのに、着いたとの手紙もほとんど来ないのはおかしい。日本社会の習慣がわかっているはずなのに…」と疑問に思っていた頃だった。

 ところが、この疑問は「北送反対」を叫ぶ民団の謀略であり、「石けんやちり紙などの生活用品がない」という〓も反対者が故意に流すデマだととらえてしまったという。総連は「物不足はありえない話」と一蹴したものの、「帰国者」激減については、「帰国したい人はたくさんいるが、財産処分の問題や子どもの教育が中途半端になってしまう、などの理由ですぐに帰れない。北が悪いのではない」と強弁した。何か奥歯に物がはさまった言い方だと小島さんは思った。


■見通し暗い「事業」

 地元の総連幹部とはざっくばらんな付き合いができたが、中央から来た幹部は全然雰囲気が違っていた。彼らは当時にしては珍しく背広をパリッと着こなし、お金もふんだんに使う金持ちに映ったが、態度は官僚的で独裁的だとつくづく感じた。

 それに加えて、船に乗ってやって来る朝鮮労働党の幹部は、それ以上にひどい独裁者だった。「帰国事業はうまくいかないだろう」と直感した。共産主義という思想以前に、人品に問題ありと思ったからだ。

(1999.10.27 民団新聞)



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