民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<10>

元「帰国協力会」事務局長に聞く −下−



北送事業 <7>

矛盾膨らみ身を引く
"負の歴史"回復へ全力を覚悟

 小島さんは1964年7月、日朝協会と北韓の対外文化連絡協会が窓口となった「日朝青年活動家友好使節団」の一員として北に招待された。が、3週間に及ぶ初めての滞在で朝鮮労働党への不信が決定的になった。

 同行の4人も一週間でうんざりし、「早く日本に帰りたい」とこぼした。「帰国事業を推進してきた人だから、どこにでも行くことができるし、誰とでも会うことができる」と出発前に総連幹部からは言われていたが、自由な雰囲気は全然なく、冷たい非人間的な空気と監視の目が支配していたからである。

 会いたいと希望した「帰国者」5人に会えたのは、日本に戻る2、3日前で、しかも監視人つきの暗い部屋での対面だった。

 懐かしさでよもやま話となるところだが、「帰国者」は下をうつむいて暗い顔をしていた。

 何を聞いても「偉大な金日成のおかげで何不自由なく幸せに暮らしている」と以下同文。どう見ても表情からは幸せを感じることができず、完全に統制され、抑圧されていると思った。

 「使節団」もホテルから一歩も出られなかった。「どうして自由に街を見せないのか」と詰め寄ると、束の間の外出は許されたものの、入り口の見張り役から「どこに行くのか」とさえぎられた。

 日本で〓されていた北韓の閉塞状況を追認する訪問に終わった。


■共産党から脱退

 北の現実をかいま見てきた小島さんは、「北送事業」に大きな疑問を抱くようになった。だが、当時の日本共産党は「あからさまに真実を言うと社会主義を誹謗する反党分子として批判するので…」と、北を持ち上げる話をしなければならなかった。

 帰国報告会は県内の総連、教員組合、労働組合を通じて約百カ所で行われた。使ったのは苦労して撮影してきた八ミリフィルムで、北当局に検閲され、都合の悪い部分は全部消された代物だ。「地図が間に合わないくらい建設が進んでいる」と、北の「地上の楽園」説を擁護した『38度線の北』の著者、寺尾五郎の受け売りをして、北の実態にはお茶を濁した。

 当初、30万から50万人が「帰国」すると言っていたのが、尻すぼみになっていく現実を前に、小島さんの中には「一体いつまでこの事業は続くのか。

 社会主義は本当に実現できるのか」という矛盾が膨らむ。自身の身の振り方も考えなくてはならなかった。

 10年間逡巡した後、68年からの「帰国事業」1時中断を機に「協力会」の仕事を辞め、共産党からも身を引いた。


■再度の北訪問

 しかし、心が軽くなったわけではない。何しろ9万人近くを北に送り、日本人妻のことも気がかりだ。小島さんは87年、88年と立て続けに北を訪問することになる。

 87年の訪問経緯はこうだ。新潟には「帰国」第一船の出港直前に、日朝友好を願って植えられた柳並木「ボトナム通り」がある。そのお返しとして、1960年の春、日朝青年による「帰国」歓送会が行われた際、小島さんは清津港に「平和像」建立を提起、県と市にも協力を仰いで2年間で当時100万円(現在の1000万円相当)の募金を集めた。

 体育館で像の除幕式も行ったが、北からの返事は来なかった。金日成以外への贈り物は考えられないお国柄だった。

 仕方なく福祉センターに保管していたが、24年後になって総連を通じて急に受け取ると言ってきた。北京経由で平嬢へ入り、そこから清津へ向かった。

 車窓から見たものは想像以上の貧困に惨憺たる風景であった。花一つない殺風景の住宅の群、停車する駅にはどす黒い顔をした栄養失調の母子連れや人々の顔、顔、顔である。

 88年には「帰国事業」の実績を買われ、同事業について何も知らない各政党の議員ら(旧社会党と労組幹部)120人で構成する「帰国30周年新潟県訪朝団」の一員に選ばれた。

 しかし、船中で「日本人妻の里帰り問題を持ち出すな、帰国事業とは関係ない」と圧力をかけられ、一切の歓迎行事からはずされた。

 「帰国事業」に人生の大半をかけた小島さんは、「帰国者」らを犠牲にした負の歴史から逃げることができない。過去の反省を込めて今、日本人拉致問題の解決に全力を尽くすと結んだ。

(1999.11.03 民団新聞)



この号のインデックスページへBackNumberインデックスページへ


民団に対するお問い合わせはこちらへ