民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<12>

「北送」一家離散家族に聞く(下)

無実の罪で銃殺された兄…鎮魂への闘い誓う


 春仙さんが24才の時に結婚した相手は共産主義を毛嫌いし、「日本で生きていくのだから、子どもに朝鮮の教育なんかしても何もならない」と主張した。春仙さんは「日本に住んでいるからこそ民族教育が必要」と譲らず、しょっちょう喧嘩になった。

 結果的に3人の子どもたちは朝鮮学校に行ったが、深刻な意見対立が引き金になって、結婚生活は14年で破綻した。春仙さんら母子4人は東京の妹の家に身を寄せた。72年の夏のことである。

 73年10月10日、子どもたちが通う品川区の朝鮮学校で運動会が開かれた。そこで兄の安復さんと一緒に在日朝鮮中央芸術団(現在の金剛山歌劇団)に所属していた男と出くわし、兄の消息を尋ねられた。1963年の秋、家族と北へ渡った兄は、朝鮮中央放送の日本語アナウンサーになっていた。ラジオから流れる兄の放送を聴くことが、春仙さんの楽しみだった。

◆スパイと同居生活

 後日、その男の家で紹介されたのが、85年4月に韓国で逮捕された北の大物スパイ、辛光洙である。当時、千葉県市川市の同胞の会社に住み込みで働いていた春仙さんに、辛は執拗に「家を借りてそこに下宿させてほしい」と迫った。悩んだ末の73年12月、東京目黒区に一軒家を見つけ、2階は辛、1階は春仙さん家族という奇妙な同居生活が始まった。

 辛は人目を避け、昼間はほとんど外出しなかった。夜になるとラジオを聴いていたが、それは数字を朝鮮語で読み上げるもので、春仙さんも聴かされたことがある。これこそ日本人拉致を指示する北からの暗号文だった。内容をメモした辛は翌日、国際郵便局から北に手紙を出していた。こうして辛は80年6月、日本人コック、原頼晃さん拉致を決行した。

 3年間の同居生活の後、76年9月に辛は家を出た。平嬢から届いた別名の手紙には、春仙さんに渡した生活費200円の返済を迫る内容が書かれていた。金策つきた春仙さんは、兄に手紙を託して事態を収拾しようとしたが、妹の頼みを真面目に受けとめた兄が辛の住所を訪ねていったことから、北当局による兄の尾行の開始、80年3月30日のスパイ容疑逮捕、そして最悪の85年8月の銃殺刑へとつながることになる。それを春仙さんは、90年の二度目の訪朝で正式に当局から知らされた。

 長男の結婚式が今年2月に総連主催で行われた。しかし、母の春仙さんだけが招待されなかった。理由は青年活動家として金日成、正日にも会い、今も総連に身を置く長男の母が、RENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)の運動に関わり、北の実態を告発する、「反動分子」になって、長男の顔に泥を塗ったからだという。

 春仙さんは「あの子の頑なな態度は、朝鮮学校の教育と小学校2年生から3年間、父親がわりになった辛の影響が強い。総連は京都で暮らせなくしてやると脅迫文を五通送りつけて私を弾圧している」と怒りを込める。総連組織が変わらないと親子関係も修復できないのではと嘆くが、無実の罪で殺された兄の鎮魂のために闘いは続く。春仙さんの慟哭をまとめた著書『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!〜ある在日朝鮮人女性による執念の告発〜』が、94年に(株)ザ・マサダから発行されている。

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 姉の玉順さんが99年5月22日、脳溢血で亡くなったことがわかった。春仙さんによれば、亡くなった時には姉の体はボロボロになっていたという。辛の兄、燦洙さんも「弟は北に利用された」と金日成・正日政権を呪いながら、昨年5月に他界した。

(1999.11.17 民団新聞)



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