民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<13>

民主無窮花代表に聞く −上−



金正日さん

 北韓の民主化と在日同胞の明日を考える会、「民主無窮花」が神戸で設立されたのは、1997年7月のことだ。人間性と自由を奪い、人権を蹂躙している祖国の「北」の地に自由と民主主義を求める同会の会長には、朝鮮総連の商工活動や教育活動に多大な貢献をしてきた宋純鐘氏(今年4月に死去)、代表幹事には北韓の為政者と同姓同名の在日商工人、金正日氏が就任した。

 記者会見には50人以上の日本のマスコミが殺到し、大きく報道された。総連社会に影響力のある同胞の内部告発に総連は動揺し、いやがらせの電話や七十通以上の脅迫文を送りつけてきた。ところが、「金正日」という名前ゆえに名指しの批判はできなかったようだ。北当局からの改名要求もあったが、「北の正日よりも2歳年上、向こうは初めは正一だった。こちらが本家」とはねのける「在日」の正日氏に話を聞いた。2回に分けて紹介する。


◇◆◇◆◇◆


■支援の物資届かず
 北韓当局が大部分を横取り

 1960年4月、父の弟が北に帰った。男2人の兄弟は10歳も歳が離れていたため親子のようでもあり、はたから見てもとても仲がよかった。叔父が「帰国」すると報告に来た時、総連の分会長を務めていた父は戸惑っていた。正日氏が19歳の時のことである。

 「なぜ帰るんだ」と問う父に叔父は「友達が帰るから一緒に帰る」と答えた。「兄弟が大事か友達が大事か」と、今にも殴りかからんばかりの剣幕で怒っていた父だったが、最後は観念して「行くなら行け。オレは知らん」と突き放した。叔父の見送りには行かないと言っていた父だったが、叔父が新潟に向けて出発した3日後、「一緒に新潟に行こう」と正日氏に声をかけた。「帰国船」が出る前日のことだ。

 ボーッと鳴る船の汽笛を聞きながら、新潟港での叔父一家との別れ。船が出て十五分が過ぎても叔父の顔が見える。どれくらい手を振り、声を限りに叫んだのだろう。家に戻ってきたら喉が涸れて声が出なかった。叔父に続いて今度は父の姉、伯母が「帰国」することになった。連れ合いが仕事をせずにブラブラしている人だったので、伯母の生活は苦しかった。「コモは地上の楽園を信じてあこがれていたのではないか」と正日氏は振り返る。


■北から届いた手紙

 一カ月半くらいして叔父から手紙が届いた。北の実情が全然わからない父たちは、暗号で手紙を書くよう取り決めていたが、それは「北が住み良かったら長男(正日氏)をすぐ帰らせるように、悪かったら万年筆を送れ」というものだった。

 手紙には「万年筆を特急送れ」と書かれていた。「特急」という文字は、北の事情がかなり悪いとわからせるのに十分だった。次の手紙からは「あれ送れ、これ送れ」という無心になった。3枚のうち2枚にはミシン、自転車、その他いろいろと必要なものが書き連ねられている。それが何年も続いた。

 叔父たちの「帰国」後、1年くらいして八親等くらいの遠い親戚が北に帰るというので、叔父あての荷物を託したことがある。パッキンケース四つにもなったその荷物は、しかし叔父の元には届かなかったことを、80年5月に正日氏が短期訪問団で北を訪れた時に知る。「北の生活事情を見て、その人が自分のものにしたんでしょう」。

 「今一番ほしいものは何か」と叔父に手紙を出した時のことだ。「甘味がないのでサッカリンを送ってほしい」との返事が来た。薬局に行くと5グラムや10cのビンは置いてあったが、そんな分量では全然足りない。漬け物問屋を探し当ててサッカリン9sを送った。ところが、叔父が手にしたのは一キロだけで、残りは当局に没収されたことも後でわかった。

(1999.11.24 民団新聞)



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